聖餐式の本質と教会の交わりについて (ver.3 ・23/01/21)
5年ほど前から教会の交わりと聖餐式の本質について話をしてきました。
それは聖餐式を形だけのものにしたくないからです。この数年聖餐式を実施する頻度が少なくなっているのもそれが理由です。
第1コリント11章18節〜34節を読むときに感じることは、聖餐式とは礼拝の中でパンのかけらと少量のブドウ酒を飲むことではなく、食事と言う交わりの中で行われていたことがわかります。
というか、何か儀式をしたというよりは、食事をすることそのものが聖餐式であったようにも受け取れます。
ですから、教会の午後の時間の交わり、特に食事をするときに、その時間が聖餐式の本質を伴ったものである必要があります。
そういった意味では、私たちはまだ主の御心にかなった教会とはなっていないということです。
この問題を解決することは重要です。なぜなら、その交わりが正しいものでないなら、その結果は以下のようになるからです。
11章29節〜30節
11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
11:30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
もちろん、教会の中に病気がちに人がいるからといって、それがすなわち交わり方に問題があるとは言えないでしょう。
しかし、おそらく確かなことは、教会での食事を含めて交わりが御心にかなったものになるとするなら、それは、強い教会を建て上げることにつながるということです。
現実的な解決策は以下のようなものです。
@ 主を畏れ、その交わりが主のみ身体を建て上げるものであることを意識すること。
A 語る内容を建て上げのためのものとすること。
B 交わりに取り残される人を作らないようにする。
C いつも同じ人と食事しない
D 年齢を超えて共に食事をする。
E 心を開き、互いに受け入れ合い、重荷を負いあう(ガラテア6:2)
B〜Dは霊的なことだというよりは実際的な事柄ですが、そのようにしてく意図を理解し、その本質を求めるなら多くの点が改善されていくことでしょう。