JP – @ – B – 002 –  2014年版(ver.4) 基礎の学び Bグループ 人との関係 (2) 関係を妨げるもの、過去の傷と癒すこと

人間の心には 嫌な経験に遭遇した時に、自己防御のために、心を遮断するシステムがあります。そのシステムは、その場では心を守るために役に立ちますが、後の人生に妨げを生じさせます。
たとえば、過去に心の傷を受けた人は、後の人生のささいな問題であっても、過去のトラウマに関連づけられた状況が生じると、過敏に反応して心を閉ざしてしまいます。
A
多くの場合、おそらく「その人に近づかないでおこう」というような些細な反応でしょうから、本人も気がつきませんが、そのようにして無意識のうちに他の人との間に距離を作ってしまうのです。
B
小さな問題であってもそうであるなら、過去に大きな心の傷を受けた人は、他人と関係を持つことがより難しくなってしまいます。ですから、人との関係を築くためには、傷ついた心が癒される必要があります。そうでなければ、過去の出来事によって未来が束縛されてしまうことになってしまいます。

神はその心の傷を完全に癒すことができます。神は完全なる癒し主です。心の癒しは神の愛を体験することによってもたらされます。神の愛は無条件であり、すべての人を包み込む大きな愛なのです。
ですから、心の癒しを受け取るために必要なことは神の元に行くことです。
C
問題の解決方法は単純なのですが以下の理由によって、実際には簡単ではないことも少なくありません。

(1)神の解決は私達の考えるスピードではない。
神がなされる業は、私たちの心の根本からの解決です。それゆえ、複雑に絡まったさまざまな要素を癒すために、神は時には時間をかけます。その出来事を通じて、心の深い部分に気づきを与えます。
D
また、その時間をかけさせる理由の中には、急に癒されると心のバランスが崩れて、別の問題、「高慢」「」XXXなどといった、(申命記7:22)が言うところの野の獣が増す場合があるがゆえに神は時間をかけられるのです
E
(2)癒しを妨げる要素がある。
代表的な事は、癒し主なる神に近づくのを妨げる事柄があることです。心が束縛されている人は、その人の(霊)も束縛してしまう場合が多くあります。スピリットは神と交流する部分なので、そこが束縛されると癒しを受け取る以前に神の元に近づきにくくなってしまうのです。
F
神に近づくのを妨げる要素については「過去の罪」であるとか、「間違った契約」についてはAグループの学びの中で見て来ました。それらは、文字通り神に罪を犯すことによって神との関係が妨げられるという事柄についてでした。
G
しかし今回取り上げる要素は、人との間の出来事が神に近づくことを妨げることについてです。
それにはいくつかのことがありますが、代表的なのは「誰かをを赦していない」ことでしょう。

被害者は、その相手を憎み続ける権利が自分にあると思うかもしれませんが、そうではありません。
人を赦さず、恨みを握り締めているときに、それはその人をいつも握って生活している事を意味します。
H
それをたとえるなら、いつも片手で何かを握りしめて生活しているようなものです。それはものすごく不自由な生活に違いありません。人を赦すということは、自分自身が自由になるということです。人を赦さないときに霊的に束縛され、精神的に圧迫され、時には肉体に病気さえももたらすのです
I
私が、ロシア宣教に行き病院で病人の為に祈っている時に、体が横に「く」の字に曲がった人がいました。話しをする中で、ある人を憎んでいることが分かりました。私達はその人を赦すように進めましたが彼女は、なかなかその決心が出来ませんでした。
そういった中で「感情では赦す気持ちにはならなくても、意思で決心すればいいのですよ。」と勧めました。そして彼女は「私はその人を赦します」と宣言しました。そると何と「くの字」に曲がっていた彼女の体が瞬間的にまっすぐになりました。彼女の体の異変は握り締めていた憎しみが原因だったのです。
J
たしかに人を赦す決心をした後に自由や解放を多くの人が経験しています。
この学びをここまで続けられた方は、単に聖書やキリストに興味をもっただけではなく、救いを受け入れ、何らかの人生の希望を感じられたことだと思います。そういった体験は、これからも何倍にでも増大していくことでしょう。キリストにある祝福は、想像できないほど大きなものです。
その祝福を受け取り続けていくためにも、心の中にあるさまたげを取り除いていく必要があるのです。
K
(マタイの福音書18章24節−35節)は赦しについての重要な教えです。
最初に登場する男は多大な負債が王にありました。(この王は神様の象徴であり、借金とは私たちが犯した罪の象徴です。)彼は王に返済不能な現在の貨幣価値で数千億円の借金がありました。これは、私たちが負っていた「罪」という神に対する負債は、自分の命に代えても払いきれないほどだということです。

にもかかわらず、この王は寛大にも借金を帳消しにしました。彼を哀れに思ったからです。この出来事は神がキリストによって私たちの全ての罪を赦し、私たちを自由にされたことを表しています。
L
それにもかかわらず、この借金を帳消しにしてもらった男は、自分に100デナリの負債があった人を赦してあげることが出来ませんでした。100デナリとは数十万円の事です。決して少なくはありませんが、数千億円に比べたら無きに等しいものです。
自分の多大な負債は免除してもらったにもかかわらず他の人を赦すことができなかったこの人は最終的に牢屋に入れられてしまいました。
M
私たちが他の人を赦さないということは、このような状態です。たとえどれだけ自分が傷つけられたり害を受けていたとしても、私たちが神に対して負っていた負債に比べたらそれは非常に小さいものなのです。
ですから、神によって全ての罪が赦された私たちは、他の人を赦さねばなりません。
N
多くの人が赦しについて勘違いしています。またある人は、赦してしまうと、その人のためにならないと考えます。しかし、赦しは、相手がした行為に「許可を与える」あるいは「容認する」ことではありません。ただ、神にゆだねることなのです。

(ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
O
「赦さない」というのは、たと実際には手を出さなくても相手に復讐をすることです。
それは神を排除した行為となってしまいます。私たちは自分で復讐をする必要はありません、神にゆだねるときに、神自身が報復してくださるからです。
P
「赦し」が聖書の命令なので、苦しくても、形だけでも、それをしなければいけないといっているのでもありません。ただ、聖書は私たちのあるべき姿を示して下さっているのです。そしてそれは、私たちを圧迫するための戒めの言葉ではなく、私たちを自由にするための神の愛の言葉なのです。
Q
哀れみ深い神は、赦す事が出来ない弱い私たちをご存知です。御言葉のとおりに実行できないからといって神と距離を置くのではなく、そんな私たちの弱さを受け止め愛してくださる方であることを信じて近づくときに、慰めを受け取り、その慰めによって、赦せない人をも赦せるようになるのです。
R
@-A-02の「十字架と救い」において、信じることは感情ではなく決心であるといいました。同様に人を赦すことも実は感情の問題ではなく決心の問題なのです。
S
また、信仰や赦しだけではなく、人を愛することも「決心」の問題なのです。このような話を初めて聞く人は驚くかもしれませんが、聖書が教える「愛」はこの世が教える「愛」とは異なることを知らなければなりません。もしなあたが聖書的な「赦し」ができるなら、愛においても、信仰においても大きく成長できることでしょう。