@−B0021/2 基礎の学び 2020年版(ver.7)  B 人との関係(2) 関係を妨げるもの・過去の傷と赦す事
■・■ 20/03/24


人間の心には 嫌な経験に遭遇した時に、自己防御のために、心を遮断するシステムがあります。そのシステムは、その場では心を守るために役に立っても後の人生に妨げを生じさせます。
過去に心の傷を受けた人は、後の人生のささいな問題であっても、過去のトラウマに関連づけられた状況が生じると、過敏に反応して心を閉ざしてしまうからです。
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多くの場合、おそらく「その人に近づかないでおこう」というような些細な反応でしょうから、本人も気がつきませんが、そのようにして無意識のうちに他の人との間に距離を作ってしまうのです。
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小さな問題であってもそうであるなら、過去に大きな心の傷を受けた人は、他人と関係を持つことがより難しくなってしまいます。ですから、人との関係を築くためには、傷ついた心が癒される必要があります。そうでなければ、過去の出来事によって未来が束縛されてしまうことになってしまいます。
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神はその心の傷を完全に癒すことができます。神は完全なる癒し主です。心の癒しは神の愛を体験することによってもたらされます。神の愛は無条件であり、すべての人を包み込む大きな愛なのです。
ですから、心の癒しを受け取るために必要なことは神の元に行くことです。
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問題の解決方法は単純なのですが癒しを妨げる要素があることによってすぐにできないことも多いです。
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■癒しを妨げる要素
良く見られる事は、癒し主なる神に近づくのを妨げる原因があることです。心が束縛されている人は、その人の霊(スピリット)も束縛されてしまう場合があります。スピリットは神と交流する部分なので、そこが束縛されると癒しを受け取る以前に神の元に近づきにくくなってしまうのです。
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神に近づくのを妨げる要素として「過去の罪」や「間違った契約」についてはAグループの学びの中で見て来ました。それらは、文字通り神に罪を犯すことによって神との関係が妨げられるという事柄についてです。
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しかしBグループで取り上げる要素は、人間関係の壁が原因となり神に近づくことが妨げられることについてです。それにはいくつかの原因がありますが、代表的なのは「誰かをを赦していない」ことでしょう。
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被害者は、その相手を憎み続ける権利が自分にあると思うかもしれませんが、そうではありません。
人を赦さず、恨みを握り締めているときに、それはその人をいつも握って生活している事を意味します。
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■赦さない心が病をもたらす
たとえばそれは、いつも片手で何かを握りしめて生活しているようなものです。それは片手が使えずに不自由な生活に違いありません。人を赦すということは、自分自身が自由になるということです。人を赦さないときに霊的に束縛され、精神的に圧迫され、時には肉体に病気さえももたらすのです
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私が、ロシア宣教に行き病院で病人の為に祈っている時に、体が横に「く」の字に曲がった人がいました。その人は、父親を憎んでいることが分かったので私達はその人を赦すように勧めましたが彼女は、なかなかその決心が出来ませんでした。
そういった中で「感情では赦す気持ちにはならなくても、意思で決心すればいいのですよ。」と勧めました。そして彼女は「私はその人を赦します」と宣言しました。そると何と「くの字」に曲がっていた彼女の体が瞬間的にまっすぐになりました。彼女の体の異変は握り締めていた憎しみが原因だったのです。
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■赦すことに必要なのは決心
@-A-02の「十字架と救い」において、信じることは感情ではなく決心であるといいました。同様に人を赦すことも実は感情の問題ではなく決心の問題でもあります。
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■決心に対する妨げ
しかしながら、「さあ赦す決心をしましょう。」「はい。赦します」や「謝罪しましょう」「はいごめんなさい」という風にできるケースとできないケースがあります。
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ですから、できるのでしたら、そうしてください。そして前進しましょう。しかし、そうでないなら立ち止まって思いめぐらしてみましょう。
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というのも、自分では決心して赦したつもりであっても心の問題の根っこを取り扱っていなければ、形だけ赦したとしてもうまくいかない場合もあるからです。
誰かを赦すというのはおそらく「目の前にいる人との問題」ですが、前回の学びで見たような「主に親子関係の傷」を負っているときに、神の御心を行うときに妨げが生じるのです。
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もし、そういう状態であるなら、その部分を取り扱う必要があります。そういったことは多くの場合、誰かに問題を指摘されたからと言って自分を作り変えることはできないかもしれません。ですから傾聴などの助けを必要としているのです。
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ただ、それはそれとして、赦さない状態がどのようなものかについては知っていただきたいと思います。
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■赦さない人の状態
(マタイの福音書18章24節−35節)は赦しについての重要な教えです。
最初に登場する男は多大な負債が王にありました。(この王は神様の象徴であり、借金とは私たちが犯した罪の象徴です。)彼は王に返済不能な現在の貨幣価値で数千億円の借金がありました。これは、私たちが負っていた「罪」という神に対する負債は、自分の命に代えても払いきれないほどだということです。
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にもかかわらず、この王は寛大にも借金を帳消しにしました。彼を哀れに思ったからです。この出来事は神がキリストによって私たちの全ての罪を赦し、私たちを自由にされたことを表しています。
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それにもかかわらず、この借金を免除された男は、自分に100デナリ(数十万円)の負債があった人を赦してあげることが出来ませんでした。小額ではありませんが、数千億円に比べたら無きに等しいものです。
自分の多大な負債は免除してもらったにもかかわらず他の人を赦すことができなかったこの人は最終的に牢屋に入れられてしまいました。
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私たちが他の人を赦さないということは、このような状態です。たとえどれだけ自分が傷つけられたり害を受けていたとしても、私たちが神に対して負っていた負債に比べたらそれは非常に小さいものなのです。
ですから、神によって全ての罪が赦された私たちは、他の人を赦さねばなりません。
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赦しについて勘違いしてはなりません。ある人は、赦してしまうと、その人の為にならないと考えます。しかし、赦しは、相手がした事に許可を与えたり容認することではありません。ただ、神にゆだねることなのです。
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(ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
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「赦さない」というのは、たとえ手を出さなくても相手に復讐をすることです。それは神を排除した行為となります。私たちは自分で復讐をする必要はありません、神にゆだねるなら神自身が報復してくださるからです。
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「赦し」が聖書の命令なので、苦しくても、形だけでも、それをしなければいけないといっているのでもありません。ただ、聖書は私たちのあるべき姿を示して下さっているのです。そしてそれは、私たちを圧迫するための戒めの言葉ではなく、私たちを自由にするための神の愛の言葉なのです。
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哀れみ深い神は、赦す事が出来ない弱い私たちをご存知です。御言葉のとおりに実行できないからといって神と距離を置くのではなく、そんな私たちの弱さを受け止め愛してくださる方であることを信じて近づくときに、慰めを受け取り、その慰めによって、赦せない人をも赦せるようになるのです。