JP−@−B0031/2 2020年版(ver.7)基礎の学び B 人との関係(3)価値観と偽り
■・■ -20/03/24


(ヤコブ4:1何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。4:2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。(後半略)
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人と関係を持つことを妨げる原因として、ねたみや争いがあります。そしてその原因は私たちのうちにある世の価値観、欲望、低い自己像です。 そういったものはどこから入ってくるのでしょうか。

それはまず第一に、この世の価値観です。無意識のうちに周りに影響され入ってきます。テレビや雑誌、インターネットを通じて入って来るものの影響で「思い」が汚染されるのです。それはマインド・コントロールといえます。自分が影響を受けてしまっていることすら気がついていないからです。
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この世はお金中心に回っていますので、あらゆるメディア、雑誌、テレビ、娯楽は、購読者や視聴者の数を増やそうとがんばっています。つまり「人々は何を求めているか」を調査し、その欲望を満たそうとしています。人の心には罪があるゆえ、大衆受けするものを目指すときに、悪い方向に傾いてしまうのです。
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もう一つの理由は、根本的な世界観の間違いによります。
その間違った世界観とは「この世界は競争だ」というものです。もし、私たちが「この世界は競争だ」という価値観を持つなら、周囲の人たちはみな敵ということになります。それは、まったく安らぎのない世界です。
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聖書も「競争を走りぬくように」と教えています。しかし神の国は競争社会ではありません。
聖書が言う競争とは、一人一人に与えられた自分のレースを走るということです。相対評価ではなく、絶対評価として一人一人に与えられた自分のレースを走りぬくかどうかが私たちの勝利の基準なのです。 
つまり、ともに走っている人たちは敵ではなく志を共にした仲間なのです。
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普通の競争は相手を蹴落とせば自分が有利になりますが、この競技は助け合うほどお互いが有利になるのです。
そして、聖書がいう競技の価値観を身に着けると、周りの人達は仲間であり同労者となるのです。
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聖書的な価値観を持つと平安を得ることができます。それは「競争」という世界観から抜け出るからです。
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ルカ9章46節に「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」
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イエス様の弟子たちの間にも競争があったことに驚かされます。
もし根本的な世界観という問題が解決していないら、クリスチャンであっても、いやクリスチャンだからこそ抱える問題があります。それは、「霊的な優劣感」を感じたり他の人を見下すという間違った価値観です。
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たとえ、何か劣ることがあったり、いじめにあたりしても健全な家庭環境で育ったひとは「自己像が守られる」傾向があります。しかし、今日けっして少なくない人たちは、「両親の無関心」「過度の期待」「親が依存症」「虐待」などといった環境で育っており、心が守られるどころか悪い状態に追いやられているのです。
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また、「神との関係の学び」で取り上げましたが「両親、特に父親との関係」が悪かったなら、自己象がゆがめられてしまい、「誰かにこびたり」「他の人の好意を素直に受け取れなかったり」「誰かをコントロールしたりされたりする」ようになってしまいます。
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しかし、自分が無条件で愛されいてる経験をしている人は、自己像が高く外見や実績、所有物で自分の値打ちを測らないし、他人を見積もることもあまりありません。
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ですから、まず、私たちが知らなければない自分に対する価値観は、自分は神に愛された尊いものであるということです。この価値観が、しっかり身について初めて信仰生活を確かなものとしていくことが出来るのです。
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(イザヤ43:4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
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◆心を開くこと
教会は、ある一定のモラルを持っている人が集まっているように見えるので、初めてきた人の中には自分はここに相応しくないと感じるかもしれません。しかし、それは神によって変えられた結果であり、最初からそうであるわけではありません。
病院の医者や看護婦が健康に見えたからといって自分が相応しくないと感じる必要がないのと同様です。
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実際には、私たちは今でも作りかえられている過程に過ぎません。ですから、人に近づいて心を開いて話すならば、みんな普通の人であり、それぞれ葛藤している事柄があることが分かることでしょう。それを知るなら、自分も何か立派な人に見せかける必要が無いことが分かり、楽になるものです。
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私が、教会のメンバーに願っている事は自分を飾ることなく心がオープンであるということです。心を開いて互いにオープンな関係を築くことができないなら、人の弱さも見えてこないし、みんなが聖そうに見えるので、その雰囲気に合わせようとして、表面的につくろい偽善的な態度をとってしまうかもしれません。
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とはいえ、心をさらけ出すことを口実に「他の人の悪口」や「不満」をぶちまける人がいますがそれは間違ったことです。また、他人の不満を聞く人も「私が話しを聞いて助けてあげなくては」といいながらも、実は「拒絶を恐れていたり」「傷をなめあっている」だけで実際には解決がない場合があります。
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◆共同体
最初に「周りにいる人は仲間である」という意識を持つことについて書きました。そのような意識をもつ一つの方法は、家族であれ、近所づきあいであれ、教会であれ自分が属する共同体に属することです。
どのような人であっても、教会はあなたに神の家族としての共同体を提供します。
人は誰も自分の為に生きるようには作られてはおりません。共同体の中で人は平安を得ることができるのです。
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次の段階は、その共同体に貢献することです。しかし、一つ気を付けなければならないことがあります。それは、褒められたり、認められたりすることによって自分を満たそうとしてはならないということです。もしそづえあるなら、あなたはフラストレーションを持つことになるでしょう。
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ですから共同体に貢献するには多かれ少なかれ心の癒しを通る必要があります。そして、神様に近づくのです。
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また、健全なキリスト教会の中であっても、間違った動機で奉仕をするなら、フラストレーションがたまります。そして「自分はこんなにがんばっているのに、他の人は何も手伝ってくれない。」というような不満を持ったり、物事を完ぺきにこなそうとして周りの人を圧迫してしまうことでしょう。
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私たちの教会では、「奉仕は教会の必要を満たすため」以前に「人を建てあげる為にある」と考えています。
フラストレーションを持ったまま集い続けたり、奉仕を続けることは本末転倒です。自分の中に、なんらかのフラストレーションがあるなら、奉仕を休むなり、もう一度自分を吟味して考えてみるべきです。
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また、自分のコンプレックスを覆い隠す為にがんばって社会で成功しても、その後、別の問題、たとえば高慢になってしまうかもしれません。なぜなら劣等感と高慢の根は同じものだからです。
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第1サムエル記にサウルという王様が登場します。彼の初めは謙虚そうですが、後に高慢になり、自分を権威づけする為に宗教的儀式を用いたり、自分の立場を守るために、嘘をついたり、他の人を圧迫するようになりました。そして最後には聖書が禁じている霊媒師を頼るようになり、ついに死んでしまいました。つまり、コンプレックスという心の問題が、彼を数え切れないほどの多くの問題に入れてしまったのです。
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ですから、私たちは、他の人と健全な関係を築くためにも、また、健全な霊的成長のためにも、間違った価値観から離れなければなりません。そして神に愛されているという自己像を身につける為にも神に近づき神の無条件の愛を体験するべきです。