JP – @ – B – 004 – 1/2  2023年版(ver.7) 基礎の学び Bグループ 人との関係 ()交わりとコミュニケーション
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教会のことを聖書の原語でエクレシアといいます。それは人の集まりを意味する言葉です。ですから、
教会とは神を中心とした人の集まりのことであり、教会を建て上げる為の材料はそこに集うメンバーです。
ということは、神様は人間としての私たちの体、心、霊、感情を含めてすべての部分を用いてくださいます。
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1つ前の学びで(ヨハネ11:43-44)のラザロのよみがえりの箇所から、教会メンバー同士の人間関係を用いて、心の癒しなどが行われることに触れました。
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交わりを通じて教会が建て上げられるきかっけは次のようなものです。
.@ 心を開いて自分のことについて語ることをきっかけとして心の癒しが始まる。
.A 互いに重荷を負いあい、祈り心で接するときに神の霊が働く。
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どうしてそのようなことが起こるのかといいますと、キリストを信じる者の内に聖霊が住んでいるので、私たちの何気ない会話や交わりを通じてでも神様は働かれるからです。
それは心の癒し、啓示、預言、知恵の言葉、体のいやしなどなどです。
ですから、教会の交わりは聖なる霊に働いていただくための器であることを心にとめておいてください。
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そして、それが十分発揮されるためには、次のような原則があることを知る必要があります。

.@ すべての人は、キリストが代わりに死んでくださったほど尊い存在である。
.A 神様は良い方であるという視点を持つ。
.B「境界線」(※1)が尊重される。つまり何かを強制される事はないし、自由意志が尊重されます。
.C 誰をも裁かない、誰からも責めを受ける必要はない。
.D「傾聴」(※2)により相手の気持ちを理解することは心のいやしや回復の始まりとなることがある。
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(※1)「境界線の尊重」自分と相手が区別されている状態で、自分の身を安全な位置に置くことができる。
(※2)「傾聴」話を聞いてあげること、裁いたり教えたりするのではない。
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基本的に毎月2回日曜礼拝のメッセージの後にスモールグループを作ってメッセージに対する応答の時を持っております。それは上記の原則を理解したり、実現されるための時です。
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誰かと個人的に話した話の内容は基本的には言い広めるべきではありません。
ですから、もし誰かが、あなたに心を打ち明けて何かを伝えたなら、それを牧会スタッフに報告する必要はありません。それはあなたを信頼してあなたに伝えたのだからです。
しかし、もし話を聞いたあなたがアドバイスを必要としたり、負いきれなかったりするのであるならもちろん私たちは手助けをします。
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それにしても、もし、誰にも一切語ってほしくない内容の相談であるならプロのカウンセラーに頼むべきです。
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噂話の祈りを避ける: 「祈りの課題」と称して、噂話を広めてしまう場合もあります。神は全てをご存知なので、詳細をみんなに伝えて祈らねば祈りが聞かれないというものではありません。
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誰かに対する否定的な言葉を聞いた時の対応
もちろん、原則的には変わりません。すなわち、傾聴したり、そう感じた気持ちを理解してあげることです。
しかし、ただ、それだけで終わっていたらその人の状態はあまり変わらないかもしれません。
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不適切な発言や振る舞いというものの多くの場合その人が心に問題を抱えている兆候であることを知るならば、その人の為にも、ただ、話を聞いて放置するのは良くありません。その人の癒しのためにも、陰で祈るだけでなく、実際的に一緒に神の元に行くための何らかの行動ができるなら一番良いでしょう。
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正す:
また、傾聴は万能ではありません。時にはその人を優しく正す必要もあることでしょう。
というのも、あなたが誰かの間違った発言を聞いた唯一の存在なら、それを正せるのはあなただけだからです。
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(ガラテア6:1)兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(「正す手順」マタイ18:15も参考になります。)
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知っておくべき前提:
.@ 何かを主張する人は自分の問題点については語らない傾向があります。
.A つまり何かに対する訴えは両方の話を聞くまでは状況を判断することはできません。
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謝罪することについて
誰かに対して間違った発言をしたり行動をとった場合にはもちろん謝罪すると良いでしょう。
それをきっかけとして神様の霊が働かれるのを見ることでしょう。
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それでも、ただ「そうするのが正しいから」とか「クリスチャンなんだから謝るべき」という律法主義的というか心が伴っていないなら、その謝罪はあまり効果的ではありませんし、自分自身も心を偽っているわけですから赦されたという実感はあまり感じれないかもしれません。
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また、物事が起こるのにはいろんな要素が絡み合っております。
謝罪するとしても相手に全面降伏ではないし、相手の行動が正しいという意味ではありません。たとえば、
交通事故を起こしても謝ったら不利になると思い謝らない人がたまにいます。しかし通常は謝罪したとしても
それは自分の責任の範囲内においての過失を認めただけであって、全責任を負うという意味ではありません。
ですから、謝罪したからと言ってあなたが卑しめられるわけではありません。
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謝罪してはならないケース
実害がなければ謝罪は必要ありません。実際的に相手に害を及ぼしておらず、あなたの「思い」の中で、その人を単に恨んでいたり、ねたんでいたというような場合はその相手に謝罪したり、その罪を告白する必要はありません。なぜならそれは相手に対して犯した罪ではなくその人と神様との間の問題だからです。
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こう言い換えるとよくわかります。ある男性がある女性に対して「私はあなたに情欲を持ちました。」と告白したら女性は気分を害しすることでしょう。それはその女性には何の関係もないことです。
そういった告白はコミュニティーを破壊する知恵のないことです。
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(3)インターネットでコミュニケーションの危険。:
言いたいことは、文字にしたり、言葉足らずのときに誤解を生じることは知るべきです。
独り言を言うようにfacebookなどのSNSで不満を拡散するのは適切な行動ではありません。
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スマートフォンは手軽にコミュニケーションができるので考えずに書いてしまうこともあることでしょう。
私がEメールでのコミュニケーションを好みメッセンジャーを好んで用いない理由は、下書きを保存して送信前に熟考できないからです。
また、LINEは基本的にはパソコンでは打てません。スマホだとできるだけ少ない文字数にしようとしてしまうために相手に誤解を与えることがあるからです。
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もちろん、人間関係のこじれの原因の全てがサタンの仕業ではなく多くはコミュニケーションの混乱や勘違いといった事柄によるものです。しかし、サタンはしたたかで、私たちの隙を狙い教会を破壊したいと願っているのであるならですから私たちは賢くあるべきなのです。