JP−@−C−5 基礎の学び 2020年版(ver.7) C クリスチャン生活の基礎(5)弟子となる
■・■−1/2 20/04/06
(マタイ28:18)「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・・・
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これはイエスの地上での最後の命令です。私たちの使命とは単なる信者であったり、あるいは、伝道して信者を作り出せる人になることではなく、弟子を生み出せる弟子になる事がわれわれの使命です。
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「弟子となる」というとすごくハードルが高いように感じることでしょう。
ハードルを下げる為に次の最低限必要ないくつかの条件を満たしている人を「弟子」と呼ぶことにします。
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基準を下げることによってかえって全体を底上げすることができるからです。たとえば、私が教えている一日目はヨーグルト食べ放題の断食は全然難しくないのでレベルが低そうに見えますが、それから始めて、四日かけて徐々に食事を減らしていくなら5日目にはだれでも水だけで断食をさらに三日できるのと同じです。
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へりくだりは弟子が持つべき重要な特性です。人間的に言うならたとえ何の賜物やとりえがない人であってもへりくだっているなら、神はその人を大きく用いることができるのです。
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弱さをさらけ出せる人は霊的にも早く成長できます。
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(エペソ4:11-15) こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、、、(中略)、、、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
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この御言葉にあるように、牧師やリーダーを神様がお建てになったのはメンバーが整えられるためです。
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多くの人にとってのつまずきの石がこれです。賜物があり、召しのある多くの人たちが、戒められるのを嫌い、信仰が成長する機会を失ってしまいます。
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自分の人生の目的を知っている。(おぼろげでも理解している)将来のビジョンがある。
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(2テモテ2:2 )多くの証人の前で私から聞いたことを他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
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この短い文章の中に4世代の弟子の存在が書かれています(1)パウロ、(2)テモテ、(3)テモテに教えられる教える力のある忠実な人たち、(4)教える力のある忠実な人たちに教えを受ける人たち。たとえ信仰生活を保っていても、ただ、学ぶだけの人であってはいけません。
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仕える心を持っている事は霊的健康のバロメーターでもあります。へりくだっていることの証です。また、人の必要に敏感であるという意味です。
仕えることを妨げる要因は時には「自分にはできない」という思いです。しかし人を助けたい、仕えたいという気持ちがあれば神はその人を助け、能力も与えます。
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私が機材のことを何でも知っていると思っているかもしれませんが、札幌に来た当時は知識は乏しくビデオデッキとテレビの接続方法すら知りませんでした。必要を満たす為に仕える中でひとつづつ学んで行ったのです。
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互いに励ましあい、祈りあえる事は健全な信仰生活の為に大きな助けになります。
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弟子となることを妨げている大きな要因は心にある束縛です。ですから、逆に言うなら、弟子となる事は今の生活よりさらにがんばって、聖書を読んだり、奉仕をしたりする事によって徐々になされていくというわけではなく、束縛から解放される過程を通ることが重要です。
解放されているなら心が軽いので仕える事は苦ではありません。悔い改めもすばやくできます。
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ある人は、救われてすぐに教会の奉仕をします。それは良いことなのでしょうが、決して少なくないケースとして、心の傷や束縛を抱えたまま、いやむしろ、そういった傷や束縛を隠す隠れ蓑(かくれみの)として奉仕をします。そういった問題は「神様に仕えていれば解放される」というものではないのです。
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それでも、そういったやり方も時には益があります。というのも、奉仕や交わりに積極的に参加する中で、心の傷を抱えている人はストレスを感じたりするので、それがセンサーとなり、自分の問題の所在を知り、それを取り扱うことによって解放されるからです。
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ただ、その人がへりくだりと、自分の葛藤や問題をさらけ出せるオープンな心を持っている必要があります。
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最後に:
(使徒11:26まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
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この言葉によれば、クリスチャンの中の特殊な人たちが弟子と呼ばれたのではありません。弟子がクリスチャンと呼ばれたのです。つまり、弟子でないならクリスチャンにもなっていないということです。
これは厳しい言い方かもしれませんが、全ての人が弟子であるべき事を私たちに教えます。