JP−@−C006 基礎の学び 2020年版(ver.7) C クリスチャン生活の基礎(6) 洗礼
■・■1/2  21/04/26


洗礼は、全身を水に浸ける行為によってイエスに従って生きる決心した人が信仰の表明を公にする為のものです。
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信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」(マルコ16:16)
この言葉を根拠に、洗礼を受けねば救われないので、子供がすぐに死んでしまっても天国で会えるように幼児洗礼を施す教会がありますが、聖書には「信じて」と書いている以上、信仰を持っていない人に授けても意味はありません。
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別の極端は (ルカ23:43)で十字架の上で悔い改めた強盗に救いを宣言したので、信じてさえいればよい。洗礼は重要でないという考え方があります。両極端な考え方の背景は「救いとはプロセスである」ことを理解していないからです。
イエスは私達の見本となるために、その働きに先立って、洗礼を受けました。私達の模範となるためです。ですから、信じてはいても洗礼を受けないのは、その信仰が正しい方向に向かっていないことを意味します。
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私達の信仰の表明である洗礼を受ける時に3つの存在が私達を見ています。

  1. 神様および天の御使い:
    1. 私達が公に信仰を告白するときに天で喜びがあふれます。

(エペソ1:3)・・神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
(ルカ15:7) ・・ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。
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2)教会: 教会のメンバーは神の家族として、公の信仰告白を共に喜びます。
今まで見てきたように、神と関わりを持つとは、神の家族の中でなされていくことです。つまり神の共同体の中に招き入れられたことを意味します。それゆえ洗礼式は結婚式のようなものといえます。
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3)悪魔:洗礼を通じて公に彼の支配から出た事を宣言します。
(1ヨハネ5:19) 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
救われる以前は、私達はみな悪魔の支配下にありました。その支配を公式に拒否することを宣言します。
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■ 洗礼を受けるために必要な条件
1)信仰を持っていること :誰でも信仰を持つことは出来ます。しかしその程度には差があります。救われた当初から完全な信仰を持っている人はいませんし、事実私たちのだれも完全な信仰を持っているとはいえないでしょう。
ですから、こうでなければならないという厳密な基準はありませんが、以下のような要件はあることでしょう。
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2)弟子となるという方向性:  (マタイ28:19)「、、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」。つまり洗礼を受けるための条件は、「キリストの弟子となる」という人生の方向性です。別に完全でなければならないという意味ではありません。学びたい、イエスに従いたいという姿勢と方向性の問題です。
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3) クリスチャンとしての生活の標準がどういうものかについて理解していること。:  ただ教会に来ているだけではわかりにくいかもしれませんが、クリスチャン生活には標準的な生き方というものがあります。それは、アルコール、ニコチン、ゲーム、ポルノなどあらゆる中毒と呼ばれる状態を避けることはもちろん、その予備軍となることを避けることです。
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他にも様々なことがありますが、その他のクリスチャンとしての生活の標準の一つは献金をすることです。献金は礼拝行為の一部として位置づけられており、信仰のバロメーターというか、自分の心がどこにあるのか表すものでもあります。マタイ6章21節には 「あなたののあるところに、あなたのもあるからです。」と書いている通りです。
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聖書は「収入の十分の一をささげる」こと(十一献金)が標準であり祝福の基として教えております。ですから、多くの教会では洗礼を機に十一献金について教えることが多いようです。この献金は礼拝で捧げる普通の献金とは別のものなので分けて間がるとよいでしょう。
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とはいっても、私達の教会では、すべての献金を同じ袋で集めているので、誰がいくら捧げているかはわからないシステムを採用しています。それは、誰から強いられてでもなく、心から捧げたいと思う分を自発的に捧げることが出来るようにするためでもあります。  
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■ どうして洗礼を受けるのか?
1)イエスがそう命じたゆえに。:洗礼は、マタイ28章19節にあるように、イエスが私達に命じたことです。そして全ての人が受けるようにとイエス様自身も洗礼を受けられ、見本を示されました。(マタイ3:15)
洗礼は罪の悔い改めの行為でもありますが、罪の無いイエスがへりくだり、洗礼を受けられた以上、私達の全ては洗礼を受けなければなりません。
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2)神との愛の関係の中で行われる
(マタイ3:17) また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
単に命令だからというような義務的な理由ではなく、私達を愛してくださる父は、私達が御心を歩むときにそれを喜んでくださいます。私達は神を愛するが故、洗礼を受けます。
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■ 洗礼とは 〜です。
1)公な信仰の表明: 先ほど語ったとおりです(1ペテロ3:21)バプテスマは、、、正しい良心の神への誓いです。
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洗礼というのは「唯一の公式な信仰の表明」方法です。ですから、たとえイエスを信じることに寛容な家庭や国であっても、洗礼を受けると迫害を受けるでしょうし、イスラム教国では命の危険にさらされるのです。
日本で良く見る家庭の宗教についての考え方は先祖の宗派さえ尊重すれば何を信じても構わないといったものです。
その枠の中にいる限りキリストを信じても寛容であることも多いですが、洗礼を受けるとなると強い抵抗が時折見られます。なぜなら、キリストを信じる事は心の内側の問題ですが、洗礼を受ける事は公に信仰を表明することだからです。
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私たちは「キリストを信じたら救われる」という言い方をします。それは確かにそうです。しかし、ただ口で告白しただけでは完全な状態ではありません。それは公な表明ではありません。多くの教会の共通理解は、教会に毎週来ても洗礼を受けてなければ「救道者」です。「救いの道を求める人」という意味で、未信者以上クリスチャン未満です。
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SCGではイエス様を信じた人を「救われた」と呼んでいますが、その人がクリスチャンかどうかはわかりません。といいますのもクリスチャンの意味は「キリストにあるもの」です。キリストに従うなら洗礼を受けているはずだからです。
私たちの教会は戦略上、この世の人とクリスチャンの境目を急激につけずに、なだらかにすることにより緩やかな一つの共同体としてとらえるという戦略をとっています。ですから、洗礼を受けいてないからといって疎外感を感じさせるようなことはしておりませんが、でも、だからと言って洗礼の必要がなくなるわけではありません。
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2)悪魔の支配から出た事の宣言: 先ほど<05>で語ったとおりです。
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3)古い自分を葬り去る葬式
先ほど洗礼は結婚式のようなものだと表現しましたが、それはまた葬式でもあります。古い自分と決別し新しい歩みをする事を意味します。もし古い自分と決別しないなら、それを引きずって生きて行く事になります。
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ローマ6:4-6)キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた・・。キリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため・・。6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる・・。6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるため。
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洗礼とはイエスの死を再現することです。十字架にかかる以前の体は滅びていく肉体でしたが、よみがえった体は二度と死ぬことのない栄光化された体です。私達も洗礼を受ける時に、このイエスの死と復活を象徴的に表します。
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洗礼とは 〜ではない
1)洗礼の行為や水が聖めるのではありません。 (1ペテロ3:21)正しい良心の神への誓いであり ・・・
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2)信仰の入り口であって完成ではない
私達の信仰の目標はキリストの似姿になることです。したがって洗礼は信仰生活の入学式のようなものです。そして私達の信仰の成長は自分の努力によるのではなく聖霊の働きによります。
(2コリント3:18)主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
(エペソ4:13 ・・・・完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。