JP – @ – 001  2021年版(ver.7) 基礎の学び Dグループ 信仰の土台 01 三位一体
■・■1/2 2021/04/12


三位一体とはキリスト教の専門用語で、神様とは「父なる神」と「キリストと呼ばれる子なる神」、そして「神の霊である聖霊」の三つで一つであるという教えです。三位一体という言葉は聖書には出てきません。というのも、この言葉は、異端的な間違った教えから教会を守るために生まれたことばだからです。
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その間違いとは(1)「キリストの神聖、すなわち彼が神であることを認めない」、(2)「聖霊の人格を認めない」、(3)「キリストが肉体を伴い人となってこの地上に来られたことを認めない」といった事柄です。
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そのようなわけで三位一体という教理は異端から教会を守るのに役立ちましたが、デメリットもあります。
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それは、「キリストが神であること」「聖霊が神自身であり人格をもたれていること」などという事柄は、本来、(祈り、御言葉、賛美)を通じて神様との人格的な交わりの中で自然と理解していくことなのに
教理として理解したつもりになってしまったら、もうそれ以上は求めなくなるという問題です。
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また、父、子、聖霊の3つがひとつであることにこだわりすぎるときにカトリック教に見られる異端的な考え方に陥ってしまう可能性があります。カトリック教がマリアや聖人を、人と神との間の仲介者としてしまったのは「父、子、聖霊の3つを神として高く上げてしまい、あまりにも遠い存在となってしまったので新たな仲介者を必要としたともいえるでしょう。
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また、これは、プロテスタントの正統的な教会の中でも見られる間違いですが、「第1コリント14章に書かれた様な聖霊の賜物は今ではもうなくなった」というような間違った教えは聖霊が私達の内側に住み、親しく交われる存在であることを見過ごしているからではないかと思います。神という神秘的な存在を、神学的な枠組みの中に押しこんでしまうなら聖霊のダイナミックな活動が制限されてしまうのです。
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また「神はただ一人」という聖書の言葉に反しているように見えるので、今日でもユダヤ教徒、イスラム教徒やエホバの証人は「三位一体」は多神教的考えだと批判しています。
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彼らは間違っておりますが、それでもこの用語を頑張って守ろうとするときに、不要な争いが生じる可能性があります。聖書には登場しない用語を守るためにエネルギーを使いすぎるのもどうかと思います。
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いずれにしても「三位一体の教理」が言うところの「キリストが神としての性質を持つ事」「聖霊に人格があること」「聖霊が神そのものである事」は教理によってでなく御言葉から理解する必要があります。
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たとえば(1テモテ6:15)に「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」と書いていますが、(黙示録19:16) には(キリストの)着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。」とあります。つまり「神」=「王の王、主の主」=「キリスト」なのです。
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エホバの証人は「キリストは人である」といいます。その主張は半分当っています。イエスが地上に来られたときに彼は完全に人だったからです。それは次の御言葉からわかります。
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(ピリピ2:6-8) キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ・・
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しかし、彼は人のままでとどまってはいませんでした。それに続く2章9節にあるように「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名」を与えました。ですから、エホバの証人の主張は間違いです。
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彼が人であったという意味は、人と同じように食事や睡眠を必要として、移動するのに歩かねばなりません。彼が地上を歩まれたときは、神としての御性質を捨てて人と同じようになられたのですから。
ですから、彼が地上で奇跡を行ったのは神であったからではありません。
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(ルカ4:18 )「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。
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人であった彼が聖霊の油注ぎで奇跡を行うことができたのであるなら、同様に人に過ぎない私達も聖霊の油注ぎによって奇跡を行うことができるのです。
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(ヨハネ14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
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キリストが地上にいる間は人と同じであったという考え方はキリストの神性を否定するものではありません。キリストは十字架の上で死に、よみがえった後、高く上げられ神の右の座につかれました。つまり三位一体がいうところの子なる神であるキリストが回復したのです。
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(1テモテ2:5)に 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」とあるように復活したイエスは、神と人との両方の性質を持ちました。
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神が3つでひとつというややこしい方法でご自身を現されたのはご自身の完全さを表すためでした。
神は完全な「愛」であり、「交わり」です。しかし、愛も交わりも単独では存在できないものです。もし人や被造物という不完全な存在との関係によって「愛と交わり」が成り立っているなら、それは神が完全な存在ではありえません。しかし神は父、子、聖霊の関係によって完全な形でそれらを表すのです。
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三位一体の概念を説明するたとえ話の中には少し的外れのものもあるので注意が必要です。たとえば「神とは水みたいで、あるときな氷、水、蒸気だけでその本質は変わらない」などという説明を聞いたことがありますが、同時に3つの状態が存在できないのでその説明は正しくありません。
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■ 祈りにおける三位一体
祈りは誰に向かってどのように祈ればいいのでしょうか。もちろん父なる神に祈ります。正確に言うなら「イエスを通じて聖霊によって父なる神に祈る。」という一言に要約できます。
事実、イエス様自身もマタイ6章9節の「主の祈り」の中で父に祈るように勧めています。
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クリスチャンは通常「イエスの名によって祈ります」と祈りの後に付け加えますが、それはイエスという仲介により神の元に行くことの現われです。(ヨハネ15:16)の「・・わたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになる。」という御言葉の通りです。
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それでも、子や聖霊に話しかけてもそれは構いません。そして賛美もイエスに向けてどうぞしてください。彼は勝利を取られた我らの王であり、賛美にふさわしい方だからです。(ピリピ2:11)に「すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあるように、子を賛美することは父を賛美することだからです。
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また、教会は花嫁ですから「花婿イエスをしたい求める」祈りもできます。花婿との関係は父との関係だけでは表せきれない神との親密な祈りをもたらすことができることでしょう。
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■ 神の性質を知り、人格的に交わりを深めるにつれて「三位一体」という教理の枠の中に神が納まりきれないことを知り、その用語を否定したくなるかもしれませんが、その教理は伝統として尊ぶほうが良いでしょう。というのも歴史上、三位一体という言葉を否定した教会がいつの間にか聖書の教えから外れるのを見ているからです。
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私達は、新しい神のダイナミックな導きや啓示を求めると同時に、いにしえの先人の知恵や信条というものも無視すべきではありません。キリスト教は神の啓示の上に成り立っています。現在与えられている啓示やムーブメントがすばらしいからといって過去の遺産を否定してはいけないのです。