JP – @ – 005  2021(ver.8) Eグループ良い地に種をまく05タブー(してよいこと、悪いこと  

・■1/3   (21/06/19)   

クイズです。次のABCDEの事柄の中でクリスチャンになったらしてはいけない事はどれでしょうか?


<02>
これはひっかけ問題で、正しい答えは(E)「三つのうちのどれでもない」です。
クリスチャンになったらという点に注目してください。もちろんA,B,Cのどれもするべきではありませんが。
<03>
未信者の人に「クリスチャンって〜をしてはいけないんでしょう?」と聞かれて「聖書に〜と書いているから従わねばならない。」と説明したら「クリスチャンになるっていうのは窮屈なことだ」と感じることでしょう。
その回答は、不正確な情報であり神を信じること事の妨げにもなりかねません。
そういった中で、「クリスチャンになってもしてはいけないことは一つも増えない」という視点は、未信者に大きなインパクトを与え、彼らが心を開く機会となるでしょう。
<04>
とはいえ確かに、世の基準ではOKであり、また法律に触れなくてもしてはいけないことはたくさんあります。
たとえこの世の常識が容認しても、聖書が禁じたり、あるいは控えるように勧めている事柄があります。それは、それにより私達が束縛されたり、サタンの進入口を作ったり、人の救いが妨げられたり、人間関係が悪くなったり、社会に呪いがもたらされる事柄なので、私達が不利益を受けないようにあらかじめ教えているのです。ですから「神が怒る」とか「裁きにあう」という視点で行動を自制する考え方は最適ではありません。
<05>
漂白剤には2つの種類があります。酸素系漂白剤と塩素系です。それらの漂白剤を混ぜて使うと有毒ガスが生じます。ですから、それらの製品にはこう書いています。「混ぜるな危険!」 でもその説明を読んだからといって「漂白剤の会社は私達に束縛を与えようとしている。」などと考える人は誰もいません。むしろ生産者だからこそ知っている有益な情報を私たちに提供しているのです。
<06>
聖書の言葉についても同じです。聖書は私たちが害を受けることがないように有益な情報を提供しています。この世界のすべてを作られた方が設計者だけが知っている知識に基づいてアドバイスしているのです。

 



<07>
■ケーススタディー
上記の<05>の「世ではOKでも聖書が禁じている事」とは結婚外のセックスや偶像礼拝など、明らかな事柄を想定していますが、今から聖書が禁じているわけでないグレーゾーンの取り扱いについて考えてみましょう。
<08>
飲酒に関する3つの視点。

<09>
イエス様は飲まれ (マタイ11:19)、A健康の為に勧める場面もある(第1テモテ5:23)、そのようなわけで「酒を飲んではいけない」と言うならそれは聖書の言っている事を超えてしまうことになります。
それゆえ以前も今も、絶対だめだという教えはしておりませ。しかし2021年に書き直す際に、以前よりは否定的な方向に振っております。その理由は「私たちも教会も自分が思うほどには成熟していないから」です。
<10>
第1コリント6章12節にあるように行動を規制するのではなく「すべての行動が益になるわけではないので見分けていきましょう」的な教えは良いものです。しかし、あえて飲酒を楽しみとして用いたり、正当化しようとする心の態度があるならサタンが付け入る隙が生じることも確かです。
<11>
それに忘れてはならないのは、第1コリント6章10節に「 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができない。」ということや、かなり多くのアルコール中毒がいますが、それはちょっとした飲酒から始まっていることです。それらを踏まえて日本やアメリカで多くのクリスチャンが持っている「基本的にはお酒を飲まない」という標準的な考え方には納得するべき理由があるのです。
<12>
もうひとつの飲酒を避ける合理的な理由は、多くの国においてそれはキリスト教の文化だからです。文化とは律法や法律などといった理屈で量れるものではなく、尊ばれるべきものだと私は考えています。
<13>
ですから、私は、聖書はそれを禁止していないとしても「お酒を飲むべきではない」という方向性を示したいと思います。それはヨシュア記24:15で、どちらでも好きにしなさいと言いつつも「私と私の家は主に仕える。」と方向性を示したいのです。


<14>
生活への適応
飲酒を習慣にしたり快楽に用いるべきではありませんが、それでも、それを忌み嫌うときに神様が与えた機会を逃すこともあり得るので、バランスよく理解する必要があります。
たとえば、仕事の同僚に飲みに行こうと誘われたと仮定します。日本人で特に男性の場合、自分の生活に問題があっても「ちょっと悩みを聞いてください。」などとは言わないでしょう。「飲みに行こう」という言葉は時には「ちょっと悩みを聞いてほしい」という意味かもしれません。それなのに、もし「そんな酒の席には一切行くことはできない」という立場を取るなら、神の愛を届ける機会も失うでしょう。
<15>
とはいえ、もし、あなたが飲みたくないのなら、クリスチャンでなくても世の中には飲まない人、飲めない人はたくさんいるのですから、あらかじめ「飲まないけど付き合うよ」と告げて付き合う選択肢もあります。
<16>
多くのクリスチャンが「これはいいか悪いか」にフォーカスを当てて生活しています。でも世の人は「あなたが何かをしないから」という理由であなたを尊敬したりしないことでしょう。でも積極的にその人に関わり、関係を築き上げていく中であなたを尊敬したりキリストの香りを味わう機会を得るのです。



<17>
◆バランスの良い理解の為に
いずれにしても、牧師としてのアドバイスは、飲酒であれ、未信者との男女交際であれ、またその他の事柄であっても「して良いか悪いか」という視点ではなく、その人が成熟しているかどうかが問題なのです。成熟したクリスチャンがすることは同じことをしていても祝福され、結果的には神の栄光の為に用いられるでしょうが、そうでなければ逆に呪いとなる場合もあるからです。
<18>
この世には聖書の視点から見て「良い、悪い」の一言で割り切れないグレーゾーン(灰色地帯・黒でも白でもない)の事柄はたくさんあります。
ですから、判断に迷うでしょうが、実際の判断材料は「して良い事か悪い事か」というよりは「動機」や「ビジョン」、「これを通じて神が何をなされるか。」なのです。そしてそれを支えるのは「成熟さ」なのです。
私が願っている事は、あれはしても良い、あれはいけないと教えることではなく、一人一人のクリスチャンが成熟して、世の影響に流されてしまうのではなく、自分で考えて行動し、神の栄光を表すことです。
<19>
牧師がメンバーの行動を規制して、メンバーが霊的に過保護になり、信仰を失わないけれど生き生きとした信仰をもてず、教会も成長しないようでは困ります。教会が世の人と関わらないようにして信仰をやっと維持している「いいこちゃん」クリスチャンの集まりであってはなりません。
私達は世に出て行き、世の人と関わりを持ち、キリストと共に生きる価値観の素晴らしさを伝えるべきです。
<20>
ですから、この基礎の学びで教えている事は、行動の規制を与えることではなく、その人の霊を生かし、解放し、成熟させる事です。もし、「解放を与えないで行動の自由も与えない」としたらそれは一番悪いことです。
<21>
勘違いしてはならない事は、基礎の学びを受ければ自動的に癒されたり解放されるわけではありません。
教えられた内容を実践するときにその実を見ることができるのです。
すなわち、人を赦す事、罪を悔い改めることなどはもちろん、人との関係、デボーションの習慣や祈りと賛美の生活、献金する事、奉仕をすることが大切なのです。また、心をひらいて透明な関係を築き上げることです。
<22>
そして、それらの成熟のしるしを見るならば、人々の魂をキリストの元に勝ち取るために、牧師は安心して、未信者とのかかわりであれ、その他の事であれグレーゾーンに教会メンバーを送り出すことができるのです。
<23>
ですから、信仰の弱い人、感情的に流される人、教会に対して不信感を持っている人には「さあ、どんどん出て行って、世の人と関わりを持ちなさい」とは言えません。サタンの餌食になるのが目に見えているからです。
その場合、その人の行動にストップをかけるようなアドバイスをすることもありうることをご了承ください。