JP – @ – E – 006  2021年 (ver.7) Eグループ良い地に種をまく06 日本についてと日本の文化と習慣への対応  

■・■1/3 -21/01/14

キリスト教少数派の日本では教会やキリスト教的な事柄はある意味で異文化です。とはいっても「クリスチャンになること=日本人をやめること」ではありません。それは、本来神が与えた美しいその民族の特性を引き出し愛することにあると思います。なぜなら、文化はその国や民族に与えられた神からプレゼントだからです。
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(使徒17:26〜27) 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。(後半省略)
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聖書は文化を否定しておらず、国や文化の違いを通じて人々は神を知ると語っています。そしてパウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のようにギリシャ人にはギリシャ人のようになって福音を伝えた」と語っています。
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それでも日本のすべての文化や習慣の中には神からのものではなく、悪霊から来ているものも多くあるのも事実です。ですから賢く見分けていく必要があります。
また、前回話したグレーゾーン(良い、悪いとはっきり言えない事柄)もたくさん存在します。ただ、私自身は神を畏れ問題を排除するためにグレーゾーンであっても、できる限り避けるようにしています。
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■ 自分の信仰のはかりに応じた行動をする
クリスチャンとして受け入れるべきではない習慣が存在します。それでも、何にしてもそうですが、自分の信仰の量りに応じて、何をどうするかを決めてください。
特に習慣的、人情的、感情的な事柄に関して、「教会で教えられたから」「クリスチャンはそうするべきだから。」という理由だけで、無理な行動をすることはありません。信仰の弱い人が「こういう場合はこうしなければならない」あるいは「してはいけない。」という指示に従うことがすなわち信仰ではありません。
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ローマ14書1節と22節に「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。・・」とあります。
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■ 葬式
日本ではほとんどの葬式は仏教式で行われますが、それが理由で出席しないというのは知恵のある事ではありません。むしろ積極的に参加し哀悼の意を表し遺族に対して慰めと励ましを与えましょう。
葬式は人生の節目であり、人間関係の中でも大きな出来事です。また、けじめをつける時でもあるからです。
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クリスチャンとして問題となるのは焼香でしょう。「偶像に向かって香を炊くことを神が忌み嫌った。」と聖書にあるからです。ですから、多くの聖書的なキリスト教会では焼香はしないという考え方が一般的です。
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ただ、それでも、絶対に焼香をしてはいけないとここで結論づけはしません。というのも、ほとんどの人は、焼香を通じて仏を礼拝しているとか故人を礼拝しているという意識は持っておらず、ただ自分ができる方法で故人に哀悼の意を表し別れを告げているだけだからです。
ですから、クリスチャンにとっても、故人が仏やか神的な存在になることを信じたり、(非聖書的な考え方である)成仏できるように祈ったりするのでなければ焼香してもかまわないと考えることもできます。
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焼香をしない場合であっても周りの人と調和していく為にもっとも重要なことは「愛」に基づいた動機を示すことです。つまり愛を与え、気遣い、慰めを与える態度です。
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焼香をしないと心に決めている人であっても、前方に進み出て行うタイプの焼香は特にプレッシャーを感じるかもしれません。しかし、たとえ焼香をしなくても、今の時代では大きな問題にはならないと思います。

また、あまり積極的な対処には聞こえないでしょうが「焼香するふりをする」というのもあります。
いずれにしても、周りの人は自分が意識するほどあなたを見てはいないものですし、また、あなたがクリスチャンだということを周りの人が知るなら、見て見ぬふりをしたり、逆に気を使ってくれる事もあると思います。
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ちなみにキリスト教式葬儀で「献花」といって焼香の代わりに花を(故人ではなく神に)捧げますが、それをするのは日本だけです。それは仏教式に慣れている人が何も捧げないのは居心地が悪いからという配慮です。
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■ 結婚式
神道式の結婚式であっても出席する事に問題ありません。むしろ祝福を与えるべきです。たとえ創造主なる神の前で結婚を誓うのでなくても(イザヤ65:16) 「・・この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。」と聖書に書いているようにその結婚は神の前に有効であり、家族、親戚、友人を祝福するのは良いことです。
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神道の結婚式で問題になるのは「親族杯の儀」と呼ばれる偶像に捧げた酒を親族がひとつとなる契約の為に飲む儀式です。神道版聖餐式のようなものです。
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偶像に捧げられた酒については2つの見解があります。ひとつは飲んでも大丈夫だというものです。聖書にはこう書いています。(1コリ8:8)「しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」この記述によるなら偶像に対して捧げられた酒であってもあなたに害を与えることはないでしょう。
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けれども、偶像に捧げられたものに対するパウロの話はそこで終わらず、幾つかの事柄を分かち合った後、彼の結論は、今後いっさい(偶像に捧げられた)肉を食べないと宣言しています。つまり、食べても害は受けないだろうが「私は証のためにも、良心のためにも、また神のためにも」それを食べないと言っているのです。
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もし、酒を飲まないのでしたら、できることといえば飲んだふりをするという対処方法もあります。これは先ほどの焼香についてもいえることです。それでも、ふりをするのが良心に反するのでしたらどうぞ自分で考えて行動してください。神が知恵を与えてくださいますように。
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■ 墓参り:  
墓や故人を拝むのでなければ、墓参りはよい機会です。クリスチャンは先祖を大切にしないという誤解がありますから、墓を拝んだり先祖を礼拝してはなりませんが、先祖を尊敬し敬う気持ちは持つべきです。
未信者の家族と行って熱心にお墓を掃除するなら先祖を敬っている証を立てる機会となるでしょう。
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それは偶像礼拝を援助する行為になるのではないかと危惧する方もいますが、第二列王記5章18節でナアマン将軍が、イスラエルの神を信じながらも主君の偶像礼拝の補助をしなければならない事を心配して預言者エリシャにたずねたところ「大丈夫ですよ」といわれました。そのように、それは許容されることです。
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■ 初詣、神社:
人の心に足場があるときに悪霊はそこを通じて入りこむので、神社やお寺に行く事により即悪霊にやられるとは思いません。神社の神を礼拝したり、それに願をかけるのでなければ神社に行くこと自体は問題ありません。
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でも信仰が弱かったり恐れを感じるのでしたらやめたほうがいいでしょう。悪霊に対して恐れを持つときにそれは相手を偉大な存在だと認めることですから、逆の意味でサタンの名を高く掲げることになります。
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■ 七五三:  その起源はともかく、これは神社の神に子供を捧げる儀式です。
それには「子供を守ってください。この子をあなたに捧げますから」という意味があります。
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■ 国旗: 自分の国や自分が住んでいる国を敬うのは当然であり、国家を敬うなら国旗も敬うべきです。国旗に嫌悪感を感じる日本人もいますが、それは太平洋戦争の結果罪責感を植えつけられた事から来ています。
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従軍慰安婦や南京大虐殺などの戦争犯罪と呼ばれるものの多くは捏造や誇張です。それは政治的誘導、賠償金をせしめるため、罪責感により日本人をコントロールする為のものです。ですから、それによって国を愛し敬うことをやめてはいけません。(詳しく知りたい人はこちらをhttp://hop.verse.jp/japan/jp/)ご覧下さい。
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戦争が生じた大きな原因のひとつは世界中を植民地化していた西洋列強に対して日本が立ち上がったことにあります。日本は負けましたが、その後、アジア、アフリカ諸国は独立し、黒人は人権を得ました。
ですから、日本という存在は、歴史を変えるために神が用いた器であり誇りに思うべき視点もあるのです。
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■ 国歌: 国歌に対する考え方も基本的には国旗と同様です。一部のキリスト教界では「君が代」は天皇を崇拝する歌と考えますが、そのようなことはありません。「メロディーが暗いのでいやだ」と言う人がいますが、日本は世界でもっとも歴史が古い国(※)なので建国数十年や数百年の国と同じである必要はありません。
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(※)中国は数千年の歴史があるそうですが、時代ごとに王朝が変わり、支配する民族も変わっています。日本は天皇の統治が二千年以上(神話を差し引いても恐ろしく長い)ある一貫した歴史を持つ類まれな国です。
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■ ひな祭りと端午の節句: 
その起源において呪術的なものがあったかもしれませんが今日では、その意味合いはほとんど無くその存在自体は悪いものとは言い切れません。けれども、「片付けるのが遅れたら結婚が遅れる」などという縁起担ぎは呪いともなるのを見るときに、単なる人形を飾る以上の呪術的な意味合いがあることがわかります。
私の家では玩具であっても一切の人形は家に置かないようにしています。
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端午の節句もひな祭りと同様ですが、隠された霊的なメッセージがあります。それは「こいのぼり♪」の第三番にあるように、男子が鯉のようにたくましくなった結果、竜(サタンの象徴)となることを願うからです。
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ここに書かれた事を行ったとしても、すぐに悪霊に束縛されるわけではないでしょう。もしそうなら簡単に見分けることができるのですが・・。それでも、小さいことの蓄積が束縛をもたらすこともあるのです。
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■ 危険にさらされることが解放の機会を与える
結婚式で神道の酒を飲んだときに、その人に霊的束縛が生じたという話を聞いたことがあります。
他宗教の儀式に参加するときに確かに何らかの霊的な影響を受ける可能性があるのも事実かもしれません。
しかし、そのことが起こったのは問題はその酒だけでなく、その人がサタンが進入してくる足場をすでに持っており、悪霊的な影響を受けた酒がそれを表面化させ、取り扱うきっかけを作ったとも言えます。
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そういう視点に立つなら、これまでの教えの中で、この世の習慣に合わせる事を容認したり、はっきりと「だめ」だと言っていない事は、一見この世と妥協した甘い教えのように見えますが、逆に言うなら、それにより内側に抱える霊的な問題を表面化させ、取り扱い、霊的に成長させる機会を与える為であったと言えます。
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あれをしてはいけない、という教えによって霊的に過保護になるなら、その人の問題や葛藤が取り扱われ表面化されることは無く、窮屈な上に勝利も聖めも小さい信仰生活となってしまいます。
神が悪霊の活動を容認されているのは、私たちを滅ぼすためではなく、私たちを聖めて完全に傷のないものへと作り変えていくためという目的があるわけですから、それも私たちの成長に用いることができるのです。
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前回の学びにあったように、信仰が成長し、霊的に強い人は何をしても問題ないともいえるのですから。
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基礎の学びの教えは行動を規則で縛らない「やさしい教え」のように見えますが、ある意味で、成長のためにリスクを覚悟したより厳しい教えです。過保護に扱うのではなく、本人が自分の行動を自分で決定した結果、隠された霊的な問題を表面化させ、その人の内側を取り扱うことにつながるからです。
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ですから、そういった容認というのは、教会の中に、互いに心を開いてミニストリーをしあったり、カウンセリングを受けれるという環境や受け皿があってはじめて効果的に機能するのです。ですから、どうぞこの教えを学んでも、それで終わりにするのではなく、今まで以上に教会につながり互いに覆いあいましょう。
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ただ、霊的束縛が大きい人は、敵に隙を与えないためにも、グレーゾンのものであっても全てを避ける必要もあるでしょうからわからない場合は牧師かスタッフにご相談ください。