@−F−1基礎の学び 2017(Ver.5) Fグループ 整えられる為に (第1) 奉仕
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人が誰かの為に何かをすることは人に備わった性質であり、人の存在意義でもあります。代価を求めるのでなく無償で互いに支えあうことによって人間社会が機能するように神は作られました。
母親の機能、特に小さい子供がいる家庭ではかなりの重労働です。それに対していちいち給料が支払われることはありません。けれども、そのような働きがあるからこそ、家庭生活が円滑に営まれているのです。
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(ローマ人への手紙12:1)、、、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(中略)12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、、、、、12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
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「体を生きた供え物としてささげる」というのは、ささげ物として「体の行動をする」という意味もあります。ですから、互いに仕えあう事は礼拝の一部なのです。
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神を愛すること、人を愛することが奉仕の動機であるべきです。愛する人の為に何かをしたいと思うのは自然なことです。あなたが奉仕をするならその働きの結果それを通じて祝福を受ける大勢の人がいます。私はこの教会に来て最初にした奉仕はメッセージのカセットテープの整理であり、後にレコーディングです。大阪に住んでいたときからメッセージのカセットを送ってもらい聞いていたので、その奉仕がどれだけ人に祝福を与えるのか知っていました。それゆえその奉仕に心を注いで行っていました。
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もちろん奉仕は何も教会内に限った事ではありません。すべての信者は職場や社会のあらゆる場所において神の祭司として人と神をつなぐ働きをするために召されています。ですから、奉仕といっても教会運営に携わることだけではありません。ビジネスの現場、職場、学校、趣味のサークル、地域社会の人間関係を築き上げていく中で人々に希望を与え、証しをし、福音を伝え、教え、癒しの働きを行っていくのです。
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ただ、この教会が自分が属するところだという自覚があって、(教会は神にある家族ですから、家族がそれぞれ家事を分担するように)集会を運営するために必要な手助けがある事を知りながら何もしないというのは健全でないというのも確かです。そして「無償の奉仕を行う」という行為はその人が健全な心を持っていることのバロメーターの一つなので、すべての人が奉仕の働きをする必要はありませんが、私は牧師として奉仕の働きをしていない人がいるならそのの理由が何であるかは気になるところです。
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また逆に奉仕の動機が「パフォーマンス思考」呼ばれるような「人に認められたい」「頼られることに自分の存在価値を見出す」というのであるならそれは不健全です。
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奉仕に自分を駆り立てたり奉仕から遠ざける何か不健康な兆候があるなら、それはその人の内面を取り扱い、心に癒しをもたらすきっかけとなります。心の傷か、劣等感か何かによって奉仕から遠ざけられているのであるなら、それは「くさいものにふた」をして見ない振りをしたり「とにかく主のためにがんばろう」と言って、心に葛藤がある人を奉仕に駆り立てて、表面的には元気なように見せるのではなく、それは表面化されることにより取り扱われ癒されるべきものです。(日常生活の中で気遣いばかりをして)疲れてしまっている。(負わなくてもいい)重荷を負ってしまい、集会に来ても何か責任を負えるような状態ではありません。
主は、あらゆる機会を通じてあなたを触れて、癒しと解放を与えようとされていることを知ってください。
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■仕える事は喜びの源です。
(詩篇51:12) あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
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この詩はダビデが罪を犯した後、悔い改めの中で作った歌です。
喜んで仕える霊が働くところに、心は喜びに満たされ、癒しと解放がもたらされます。「喜んで仕える霊」のスイッチを入れる方法は「仕え始める」ことでもあるのです。ですから「喜びが無いから奉仕をしない」のではなく、奉仕に加わることを通じて喜びのスイッチを入れはじめてください。
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■奉仕はステップアップ
スピリチュアルな意味においてクリスチャンの生活にも昇進があります。それは会社のものとは異なりますが、確かに、地道であっても忠実な奉仕によって神に認められた者に与えられる特別な力油注ぎや権威、祈りが聞かれること、より深い神との交わり、特別に霊的に開かれた目。特別な神からの好意というものがあります。
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■恵みによって奉仕をする
奉仕をする動機は喜びや主への感謝です。癒され、解放されているなら自然と仕えたくなるものです。 マタイ8章14-15節で熱病で伏していたペテロのしゅうとめはイエスによって癒された後、すぐに仕えました。
私がメンバーを奉仕の働きに招待してるのは、それを通じてより多くの神の恵みと力を体験してほしいからです。究極を言えば、集会はギター一本と聖書があればそれで何とか運営できるものですから、集会を複雑にして奉仕を増やしてメンバーを忙しくさせるようなことはしません。
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■以下において奉仕をすることに対するいくつかの勘違いを上げて見たいと思います。
(1)奉仕は自分がするものだとは知らなかった。
教会の奉仕は牧師およびスタッフがするものだと思い込んでいる。
(エペソ4:11-13)キリストご自身が、(牧師などの教会の教職者)を立てました。4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、4:13(中略)完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
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つまり、上の聖書の言葉の意味は教会に牧師が存在する理由は、教会のメンバーが奉仕に加われるようにするためであり、牧師やリーダーは彼らが奉仕をする中で成熟していくのを助けるという意味です。
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(2)もうすでにやっている人がいるので自分はする必要はない。
奉仕が一人の人に集中するのは不健全です。疲れだけでなく霊的高慢や他の人を裁くことにつながります。
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(3)罪がある
              (詩篇51:12) あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
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この詩はダビデが罪を犯し悔い改めた後に作った詩です。御言葉に「喜んで仕える霊が、私をささえますように」といっていることからわかるように罪があるときに喜んで仕えることができません。ですから、健全に仕えるためにはその人の内面が取り扱われねばならないからです。
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(4)教会や牧師などの権威者に対する不信、反抗
              こういったものは、親との関係などといった過去の傷からやってくることが多いです。基礎の学び初級編Bを見直して自分を吟味していきましょう。
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(5)技術がない、自分が役に立たないと思っている。
今でこそ私は教会で扱う音響機器に対する知識がありますが、私が札幌に来たときはビデオ再生機とテレビを接続する方法すら知りませんでした。ただ、必要を満たそうとそてひとつづつ覚えました。
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最後に(2)
奉仕をする事によって、賜物に磨きが掛けられます。この教会が日本語・英語でやっている理由は、外国人の為だけではありません。会衆が英語を学べるようにであり、通訳者がその能力を鈍らせないためです。
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私がこの教会に来た時は英語のメッセージが理解できませんでした。しかしわからない単語を書き出し、テープを繰り返して聴くことにより通訳できるまでになりました。ただ、メッセージを聞いているだけでは英語は上達しないでしょうが、ほんの少し学ぼうという姿勢を持てば驚くほど上達することでしょう。