@−F−2 基礎の学び 2017(Ver.5) Fグループ 整えられる為に (第2) 献金
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(マタイ6:19-21 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
A
お金とは、私達の心がどこにあるかを最も簡単に見分けれる事柄なのです。神が求めているのは私達の心ですが、献金はその心の所在を計る大きな基準となるのです。
B
献金とは1)心からの願いによる自主的なものである:
(2コリント9:5―8)この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
C
当教会の集会中の献金は無記名で全て同じ献金箱に入れるのは誰から強いられてでもなく心の願いにしたがって行われためにです。また、献金を捧げる人が誇らない為でもあります。信仰によって捧げるものです。
今回、聖書に基づいて必要な教えをしますが献金が自発的なものであり、自由意志に基づくものである点を基本的な原則としてまずおさえておいてください。
D
献金とは2)献金は感謝の表れであり喜び: 
私は、はじめて教会に通い始めた時私の作品がドイツ人コレクターの目に留まり10万円で買い上げてくださいました。また別のギャラリーから個展開催の依頼があり、そこでも絵が売れました。私の最初の十一献金は「収入とは100%神の恵みによるものだ」と実感できる体験から始めることができました。
E
献金とは3)献金は礼拝行為。:    
礼拝とは捧げる事。それは愛する一人子イエスさえも(すなわち全てを)与えてくださった父なる神に対する感謝の心です。それゆえ私たちは人生のあらゆる領域を主に捧げ、あらゆるものの中に献金も含まれるのです。
F
献金とは4)天国に宝を積む:             地上のお金を天国に持って行くことはできません。両替が必要です。その両替の行為とは(一番最初の御言葉にあるように)生きている間にお金を捧げることなのです。
G
献金とは5)私たちが豊かになるためです。
(第2コリント9:8) 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
H
(ルカ6:38与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
I
神が捧げる事について私達に教えるのは、私達から奪う為ではなく、私たちが豊かなものとなる為なのです。事実捧げることを学んだ人は満ち足りることも体験しているものです。
J
献金とは6)祝福の種です。 種をまけば収穫は数十倍です。霊的原則も同様です。
K
■どうして豊かになるのか?
1) 種まきと刈り取りの法則による
りんごを収穫するにはりんごの苗を植えます。経済的な種をまけば、経済的な祝福を受けます。
L
2)守られる故に豊かになる:
(マラキ3:11)わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・
M
不慮の事故や、盗難、病気などから神が守られるので、余計な出費や損失から守られます。
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3)人生が変えられる故に豊かになる:
私たちが主にささげる生活をしているということは、人生の価値観が変えられているということです。そうすると、見栄のための出費や、心の傷が衝動としてもたらす無駄遣いをすることが無くなります。
O
献金とは6)律法ではなく、信仰による:
献金は規則や律法ではありません。モーセに律法が与えられる遥か以前にアブラハムは主を喜ぶあまり、自分の意思で財産の十分の一を捧げました。神は彼の心と信仰を喜ばれアブラハムを大いに祝福されました。
P
献金とは7)種類がある:                           
当教会は全ての種類の献金を同じ献金箱に入れていますが実際にはいくつかの種類に分けて考えるべきです。マラキ書に「十分の一」と「奉納物」が分けて書かれています。また「初物」、「進んでささげる」があります。
Q
@十分の一献金
(マラキ3章7節―9節の記述によると、収入の十分の一はもともと自分のものではなく神の物です。収入の1割とは多いと感じるでしょうか。しかし、1割をささげるときに残りの9割が祝福され守られるのです。祝福されていない収入の100%金額より祝福された90%の金額のほうを私は選びます。もしその10%を惜しむとするなら、神の祝福よりお金を信じていることになるでしょう。
R
収入の十分の一と聞かされると、「それは税金や社会保険を引く前(総支給)なのか後(手取り)なのか」とという質問を受けることがあります。また、収入を捧げることについてはわかるけれど、宝くじが当たったり、遺産を相続するような場合はどうしたら良いのかと尋ねる人がいます。
S
まず、確認すべきことは(1)(2コリント9:7) いやいやながらでなく強いられてでもなく心で決めた通りにしなさい。という原則です。捧げるという良い行動に対してプレッシャーを感じて欲しくありません。
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ただ、私自身心に留めていることは(2)(ユダ1:20)「自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさい・・」という言葉。また(3)(マラキ3:8)の「・・・ことごとく携えよ。」という言葉です。
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A礼拝献金&その他の献金: 
「礼拝献金」「十一献金」以外に特に名目をつけて集めていませんが信仰によって生誕日や復活祭などの時期を記念して、洗礼、家の建築、進学、就職などの節目に感謝の心を特別献金で表すのは奨励されることです。
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B初物をささげる(レビ記 2: 12): 
私は牧師の勧めによって結婚後の最初の月の収入をすべてささげました。このアドバイスを感謝しています。初物を捧げることにより今日に至るまで私たちの経済は守られていると確信しています。結婚、就職、その他の人生の節目に初物を捧げることは神は大いに祝福を与えられることでしょう。
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大ヒット本の印税の十分の一を私が捧げたのはもちろんですが、その他にも大きな金額であった初版分の印税は全額初物献金として捧げました。本が継続してヒットしたのはその捧げる行動にあったと私は信じています。
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献金とは8)財産はそれはもともと自分のものではない
ダビデ王は第1歴代誌29章14節で「このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たので、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」と語っています。
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献金とは9)どこに献金するべきか: 
(マラキ3:10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ
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「わたしの家の食物」=「自分が霊的食物を受け取っているところ」、つまり自分が所属する教会です。ココス平岸店で食事をして同じ系列だからと言って、ココス手稲店に支払う人はいません。もちろん第一のものを第一とするなら、どこにでもいくらでも献金する自由はあります。自分の教会を後回しにして、一部をある宣教団体に、残りを誰か助けの必要な人に」などとする人がいますがそれは適切ではありません。
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献金とは10)貧しい人はどうするか:
聖書の中には貧しい人が、なけなしのお金を捧げた時に、大きな報いを受けた例がたくさん書いています。献金の原則はお金持ちも、そうでない人にも基本的に変わりません。むしろ有り余る中から捧げるより価値のある献金です。ただそれは、信仰の問題ですので、自分の信仰に基づいて行ってください。
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それと同時に本当の意味で、周りの人たちが聖書の教えを実践するなら、困窮者はいないはずです。聖書は「周りにいる豊かな人達が貧しい人を助けるように。」と語っているからです。事実(ルカ21:1)でやもめが全財産のレプタ銅貨2枚を捧げることができたのは、当時のユダヤ人社会の互助システムがあったからでしょう。
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献金とは11)神を試すことができる。
(マラキ3:10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て・・・こうしてわたしをためしてみよ。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。
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神を試す事を聖書は禁じてますが、こと献金に関しては違います。それは疑い私達が祝福を逃がさないように、私達のレベルに神が合わせているのです。試す事によって神の御業を見る機会を提供して下さってます。
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■最後に:    
献金について教会メンバーに教えないとしたらそれは、神が与えてくださる祝福をその人から奪ってしまうことを意味します。私は皆さんが経済的に祝福を受け繁栄することができるようにこれらの教えを贈ります。
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繰り返しになりますが、私が好きな御言葉は次のものです。
(第2コリント9:8) 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
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私の願いは一人一人の心が本当の意味で自由になり、神の愛を十分体験することです。本当に良いもの、心の自由、解放を経験しているのなら、お金を惜しいとは思わないからです。
そして献金という種をまくなら、さらに祝福が注がれよいサイクルが増大していくのです。
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■とはいえ、「とにかく献金さえすれば祝福される」とは言いません。祝福を人から奪う要素は罪や赦さない思い、悪い習慣など他にもたくさんあります。
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私は、教会のメンバーが嫌々捧げることを願っていません。その理由は、罪を犯していたり、誰かを赦していなかったり、サタンに足場を残しているがゆえ祝福を逃している人が、無理に捧げて「捧げているのに報いが少ない」などといって不満を感じてほしくないからです。その人には解放が必要なのです。
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※ もちろん、だからと言って心が癒されるまでささげる必要がないとは言っていません。献金することはクリスチャン生活の基本的なことのひとつだからです。
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いずれにしても、きちんと献金しているにもかかわらず祝福や報いが少ないと感じる人は、今迄の学びを最初から振り返ってください。罪を犯し続けているなどして祝福を妨げている要因があることが多いです。
それらを取り扱うことなければ、祝福が与えられないからと言って神様に文句を言われても困ります。
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ですから、自分自身を吟味してみましょう。また、必要に応じてアドバイスいたしますのでご相談ください。
私の願いは、心の癒し、肉体の癒し、仕事の充実、経済的な繁栄、良好な人間関係、その他さまざまな領域において皆さんが栄え祝福を受けることです。その為にも今回の教えが皆さんのお役に立てればと思います。