@−F−5 2025年(Ver.8) 基礎の学び Fグループ 整えられる為に (第5) 預言と預言の吟味
■・■−1/2 (2025/02/13)
預言とは神の言葉を預かるという意味です。もちろん未来予知も含みますが、世が言う予言とは区別されます。ただし原語では預言と予言の区別はなく、聖書翻訳として「私」と「わたし」を使い分けるようなものです。
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いずれにしても「あなたを愛している」という単純な語りかけを神から受け取り、それを語る事も預言です。
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本質的に全く異なるものです。占いは統計学や心理コントロールまた、占いの霊(悪霊)による偽りの知識です。
占いは自己中心であり混乱を与えます。しかし預言は神中心で解放とビジョンを与え、神との関係を築きます。
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■ 預言のレベルとその概念
預言の能力にはレベルがあり「(1)いつでも誰でもできる預言(2)預言の霊によって時には誰でも出来うる預言(3)選ばれた人に与えられる預言の賜物 (4)預言者による預言」という4つのレベルがあります。
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このレベルがあるという概念は、癒しや異言にレベルがあることを知ることにより理解しやすいでしょう。
たとえば、マルコ16章17節〜に「癒しと異言(新しい言葉)」について書いていますが、これは、(1)の誰でもできるレベルです。誰でも異言を語ることができますし、誰でも癒しの為に祈ることができます。
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それとは別に第1コリント12章7〜11節に書かれた特定の人に対して(3)の御霊が与える賜物として癒しと異言などがあります。これは誰でも受ける可能性はありますが、全ての人が持っているわけではありません。
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このレベルの御霊の賜物においては、自分の分を超えない事も大切です。「人の徳を高め、慰め、勧める(第2コリント12:3)」のレベルにとどまるべき。つまり未来予告や、厳しく戒めを与える言葉は注意すべきです。
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■ 預言者による預言のレベル
預言者とはキリストによる(エペソ4:11)特別な任命です。今日の教会にはそのようなシステムはありませんが、廃止されたという記述も無いので、聖書主義の立場に立つなら、今でも存在すると考える方が自然です。
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■旧約の預言と新約の預言との違い
旧約と新約では預言者の立場も機能も全く違います。その不理解は混乱生じます。
旧約時代には、預言者はEメールを転送するように神の言葉を直接民に伝えました。しかし、新約時代では、御霊により霊が活性化された人が自分の知性や感覚、経験などと照らし合わせたりして言葉を消化し伝えます。
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つまり、新約時代では間違える事もあり得るということです。それは(4)の預言者レベルであっても同様です。
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五役者(エペソ4:11)にあるように新約時代の教会はチームミニストリーにより建て上げられるものです。ですから、不完全な一人一人がへりくだり助け合うことによってなされることは神の御心なのです。
■ アクティベーション(活性化)という概念
旧約では、任命された人の上に御霊がとどまり預言者になりました。能力開発の努力も練習も必要ありません。
一方、新約の時代には全ての人に御霊が与えられ、その御霊を通じて神とつながり預言をします。
ですから、誰でも預言できますが、全ての人が発展途上で学び中です。ですから活性化させる必要があります。
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1)全ての人が預言できるが訓練や活性化も必要
(1コリント14:31)すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。
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2)賜物は熱心に求めるべきもの: (1コリ14:1)・・・御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
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3)それがよいものであることを知る。:(1コリント14:4)・・・預言する者は教会の徳を高めます。
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4)吟味が必要: (1コリ14:29) 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。
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■ 預言の効能
1)普通ではない突破を与える
第2歴代誌20章で他国からの侵略の危機にあったユダ王国の状況を変えたのは14節でヤハジエルが語る主からの預言的な励ましの言葉でした。預言者の言葉を通じて民は信仰(の賜物)を受け取ったのです。
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誰でもクリスチャンであれば神様とつながっています。ですから誰でも神様から直接言葉を受けることができます。しかしそれには限界があり、また落胆しているときには、受けれるものも受け取ることが出来ません。そのような中、他人から語られる励ましの言葉・・人間的な慰めではなく、預言的な励ましはとても有益です。
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■ 語り方の注意点
1)普通の話し方、普通の言葉を用いること:預言というと何か宗教的になったり、権威付けをするために声色を変えたりする人がいますが、そうなる必要はありません。
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私も、もはや、とってつけたような言葉で預言はほとんどしておりません。会話の中で普通の言葉で伝えます。
ですから、私が啓示を受けて語っていても、聞き手も気が付かないこともあることでしょう。
しかし、それぐらいの方がコントロールが入りにくいし、聞き手も自由意思を行使しやすくて良いと思います。
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2)誰かをコントロールする為に用いてはならない:
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■預言の吟味■ 預言を受ける場合の注意点
人間ですから間違える場合があります。預言者であっても完全ではありません。
(第1コリント14章29節)には吟味しなさいと書いています。
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受けた預言に基づいて行動することは賢明ではありません。それまで語られていたこと、感じていたことの確認の一つとして用いるべきです。(参考:使徒13:2)
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預言の言葉は成就するために時間がかかるものです。成就してなくても預言者が間違えたとは限りません。
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エジプトのヨセフのように成就までに品性が練られる過程を通らされることもあります。
出エジプト記19章5節のように、成就の為には私達が満たすべき必要条件があります。自分のするべき分を果たしていないのに、成就しなかったり、成就したものの困難な目にあっても文句は言えません。
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預言は基本的に徳を高めるために語られる言葉です。通常その人の悪い部分については公には言いませんので、たとえその人が罪を犯していたとしても、預言者が指摘するとは限りません。ですから、「自分は罪を犯しているのに何も言われなかった。これでいいんだ」とは思わないでください。
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耳で聞いた言葉は都合よく解釈してしまいがちです。客観的に判断できるように録音をお勧めします。
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預言者がある教会に招かれてミニストリーを行う場合、その人がどれだけ有名な預言者や使徒であっても、あくまでもその一教会の牧師の覆いの下でミニストリーを行うことになります。
ですから、預言者の言葉がその教会の牧師の言葉より権威があるわけではありません。