@−F7 基礎の学び 2017(Ver.5) Fグループ 成熟の為に () 再生産
■・■1/2


この学びのシリーズは今回でとりあえず最後です。教師が教え続け、周りの者がただ受身的に学び続ける時に起こる弊害がは、学んでいるだけでは知識はあるけれど、行動が伴わない、役に立たないクリスチャンになってしまうことです。大切な二つのことは次の二つです。
1)受け取った事(学んだ事)を実践する事。
2)受け取った事を別に人に教え、模範を見せること。
C
ここでは2つの意味で再生産について語ります。ひとつはこの基礎の学びを受けた方が次回に何らかの形で導いて行くことであり。もうひとつはクリスチャン生活全般での再生産についてです。
D
■ 基礎の学びを導く ■
2016年からは、グループでのディスカッションと同時に一対一に近い学びを進めていきたいと考えています。
それは引き続きスタッフとの打ち合わせによるものですし、必要に応じて同伴しても良いので、始めやすいことだ思います。
E
この基礎の学びは弟子訓練と再生産のシステムです。といっても何か複雑なことをするわけではありません。最初にスタッフの方々に導いていただきましたが、私が彼らに伝えた説明は「最低限することは、ここに私が教えをまとめたプリントがありますから、このプリントを配って、それを参考にしながら何かディスカッションをすればいいんですよ。」でした。
もうすでにプリントに書かれた内容があるのですから、何かを教えようとする必要はありません。
F
グループの学びの場合は特にそうなのですが、大切にしてほしい雰囲気はそこに互いを受け入れ合い、心を開いて「自分のことも話してみたいな」と思える雰囲気があることです。
G
他の人が経験を分かち合っている言葉を聴くことによって、自分の人生の妨げとなっていた事柄が何か気がつかされることもしばしばあるでしょう。多くの場合、心をオープンにしたり人と関係を持つのを妨げているのは、これまで基礎の学びで見てきたようにコンプレックスであったり、過去に傷ついた体験、妬みといった事柄だからです。
H
これらのことが取り扱われていないと、聖書の言葉も頭では理解できても心にまで入っていきません。
そういった内面はただ教会に出席してメッセージを聞いているだけでは効果的に取り扱うことが出来ません。小さいグループの中で他の人とかかわり、他の人の(弱さや失敗といった事柄も含めた)経験を聞き、自分自身について分かち合うことが癒しのきっかけとなるのです。
I
(ヤコブ5:16ですから、あなたがたは、互いに罪(弱さ)を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
J
交わりの中に、へりくだった心と、自由な雰囲気があるなら、あなたの経験は喜びであれ苦しみであれ周りの人を励まし、慰めることが出来るのです。
K
そして妨げが取り去られるなら、別に誰にも教えてもらわなくても聖書の言葉を自然に理解できるようになります。神の霊である聖霊が私たちの内に住んでいるのですから。自然に理解できます。
第1ヨハネ2:27の「だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教える・・・」という言葉は指導を受ける必要が無いという意味ではありませんが、確かに妨げが取り去られ聖霊が働くなら、御言葉が理解できるようになるのです。
L
基礎の学びでは基本教理(御言葉)も教えますが、聖霊によって教えられる土台作りの場であると考えています。「基礎」と名がつけられているのは御言葉を受け取る基礎を築くことにあるからです。
M
あなたが教えるときに、自分自身が学べます。教えをする人は祈り備えたり、何らかの打ち合わせをしたり、下準備をすることでしょう。その経験は、あなたの霊的成長に役立ちます。
N

■ 生活の中での再生産 ■
再生産とは弟子を作り出すこと。自分が模範となることです。
それはハードルが高く感じるかもしれません。
O
第1コリント4:16〜17) ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
P
パウロはコリント人たちが自分自身のようになってほしいと願い、その模範としてテモテを送りました。これは驚くべきことです。コピーのコピーは劣化するものですが、彼は恐れませんでした。テモテが自分を見習っていることに相当自信があったのでしょうが、それだけではなかったようです。
Q
もちろん、目指すべきはこのレベルの再生産ですが、いきなりそうなるわけではありません。
まず、大切なことは、同じように振舞うというよりは、同じ聖霊がはたらき、その人の内にある良いものが引き出され整えられることです。ですから、再生産で意識していくことは、人の弱さを通じても神の霊が働くことを知り、その働きを促すことなのです。
R

神の真理を教えるのに、必ずしも立派な人間であったり、強い信仰を持っていなければならないわけではありません。むしろ弱い人であるからこそ教えれる真理もあるのです。
S
たとえば、ある人に問題が起こった時「不満をぶつけて神様に文句を言った」とします。これに対して、どうアドバイスできるでしょうか。そういった態度は間違いで、「すべてに感謝しなさい。」と諭すべきでしょうか。
(21)
それは正しい模範的な教えですが、真理はそれだけではありません。私達は神の子なのですから父である神に向かって「文句を言う」という形で感情をぶちまけることが許されているのも確かであり、事実、それをすることによって癒され解放される事も起こるのです。
(22)
「すべてに感謝しなさい。」というひとつの真理だけの教えであるなら(1)感情を押し込んでしまう。という問題を持ちますし、神に文句を言うことに対して(2)罪責感を持つったり。(3)自分はだめなクリスチャンという敗北感を持ってしまいます。
もちろん、神に文句を言っている段階にとどまり続けるわけにはいきませんが、「神に向かって自分の感情を解き放ってもかまわないんだ。」という安心感と自分が受け入れられているという経験を通ることによって、癒しと成熟に進むことが出来るのです。
(24)
よくある問題はこうでなければならないという思いによって「持つ必要がない重荷(心の負担)を背負ってしまうこと」なのです。それを持つ必要がないと知るだけでもずいぶんと楽になります。
(25)
■また、多く見られる問題は「正しい振る舞いとは何かを知らないこと」ではなく「何が正しいかを知っていながらそれを行えない。」事です。小さいグループの中で、弱さや失敗を含めてオープンに分かち合われる時にそれは他の人の励ましとなり、結果的には、神に近づくこととなるのです。神に近づくなら今まで弱さゆえに出来なかったことが出来るようになるのです。
(26)
ですから、あなたが弱さを持っている事はマイナスではありません。どのような、教えも、個人の経験というフィルターを通じて語られるときに、共感をもたらし、具体的な生きた教えとなるのです。
(27)
そういった手法によって建てあげられるなら、それはもはや独善的な一匹狼的なクリスチャンを作り出すのではなく、共同体の中で共に前進していく成熟したクリスチャンを生み出すのです。
共同体の中に、愛とへりくだりの雰囲気があるのなら、それはすなわち神の御性質なので、神の霊はそこを居心地よく感じ、そこに住まわれるのです。その神の霊が私たちに成長と成熟を与えるのです。