JP−A−A20  中級編 旧約聖書概論 Aグループ  (20) ダビデA(第2サムエル)
17/09/221/2 ● ■・■

聖書箇所:第2サムエル
@
(第2サムエル5:12) ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされたのを知った。
A
この言葉はサウル王の死後、ダビデがイスラエル全体の王となった(5:3)後に彼が語った言葉です。彼は、神が自分を立てたのは「イスラエルのため」であって自分の功績ではないことを理解しておりました。
B
■導きを求める
彼は神の導きを常に求めていました。(第2サムエル5章19節〜25節)にダビデが主に伺いを立てて戦いを展開していたことが書かれています。興味深いことは、同じような戦闘の場面において、神の最初の指令は「上れ」でありましたが二度目は「上っていくな。後ろに回れ」だったことです。 私たちは以前うまく言った方法を次にも使いがちです。その方法が主によって与えられたのでしたらなおさらです。
しかし、彼は、常に主により頼み、そのつど従い、そして勝利を得たのでした。
C
■主の臨在をしたい求めるダビデ
ダビデの最大の功績のひとつは、主を愛し、主の臨在をしたい求めたことにあります。
ダビデは主の臨在を常に求める人でした。その情熱は新しい楽器を考案するほどでした。(アモス6:5)。
D
ダビデは万難を排して主の臨在の象徴である契約の箱をエルサレムに運びあげました。彼がその決断に至る過程は詩篇132編に記されています。
E
主よ。ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください。(中略)132:4 私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。 132:5 私が主のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。」 132:6 今や、私たちはエフラテでそれを聞き、ヤアルの野で、それを見いだした。 132:7 さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(詩篇132:1〜7)
F
彼が睡眠を惜しんで主を求めたことから、ダビデは247の祈りの家の祖であるといえます。実際、彼の晩年には12交代の聖歌隊によって(1歴代誌23:5)絶え間ない賛美と祈りをささげました。
G
■契約の箱を運び込む(第2サムエル6章)
契約の箱は長い間キリヤテ・エリヤムのアビナダブの家(1サムエル7:1)にありました。それは主の罰を恐れ(畏れではなく、主の心を知らなかったために契約の箱の扱い方がわからなかったので)たので、結果的に放置されていました。
H
上の詩篇132編にあるように、ダビデは契約の箱をエルサレムのダビデの町に運び込もうとしましたが(6:1〜)、しかし、その運び方が正しくありませんでした。契約の箱はレビ人の中のケハテ族が肩に背負わなければならない(民4:15)とされていたからです。それゆえ、主はそれを押えようとしたウザ打ち、彼は死にました(6:7)。
I
これは、厳しい処置に見えます。確かにそうかもしれませんが、ウザとはどのような人だったのでしょうか?彼はアビナダブの子、すなわち彼の家に長い間契約の箱が保管されていたのです。彼にとって、契約の箱は恐れ多いものではなくなっていたのかもしれません。
J
そのような出来事があったので契約の箱の運搬はいったん中断されオベデ・エドムの家に保管されることになりました(6:11)。どうして、オベデ・エドムの家だったのでしょうか?彼についての情報は聖書に余りありませんが、その名前から(エドム=エサウの子孫、すなわち)異邦人であったことが伺えます。
今日の祈りの家のムーブメントで、異邦人が祭司となることについて強調されていますが、それはこの御言葉からもわかります。
K
もうひとつの特徴はオベデです。オベデの語源は(abad)でその意味は「仕える」です。オベデはへりくだった仕える心を持った人でした。それゆえ、主はオベデ・エドムの家を大いに祝福されました。
L
■ダビデの祝福に対する貪欲さ
しばらく契約の箱から距離を置きたかったダビデでしたが、異邦人が祝福されているのを見て、再び契約の箱を運び上げることに決めました。もちろん正しい運び方も学びました(6:13)(1歴代誌15:13)。
M
■礼拝に踊りを取り入れたダビデ
ハレルヤの意味は「主を賛美する」ですが、それは静かな礼拝ではなく、「はしゃぎまわって主をたたえる」という意味です。ハレルヤのヤは主をあらわし、たたえるはハレルです。ハレルという言葉の元の意味は炸裂、光を放つを意味しています。つまり炸裂した賛美がハレルヤであり、それを表した礼拝方法が踊りなのです。
N
この言葉は最初に賛美に用いたのはこの箱が運び上げられたときです。第2サムエル記6章には記載されていませんが、同じ出来事を綴った第1歴代誌16:4にあります。
O
■王である祭司ダビデ
ここでひとつ疑問が生じます。ダビデが祭司の衣装であるエポデをまとっていたことです(6:14)。先に、サウルが勝手にいけにえをささげた(祭司の働きをした)ときに(1サム13:9)主は怒りました。それでは、どうしてダビデは許されたのでしょうか?彼とサウルの違いはいったい何なのでしょうか?
それについて正確にはわかりませんが、彼がキリストの予型であることを理解するならある程度わかります。
P
まず第一にサウルと異なり彼はユダ族です。「王権はユダを離れず」とあるように、王であり祭司である資格の半分はすでに満たされています。もうひとつの条件はレビ族となるはずですが、
Q
最初に登場する王である祭司はメルキゼデク(創世記14:18)です。 (ヘブル7:1-3) を見るなら彼はレビ族ではなく、また人間でもありませんでした。彼はレビ族ではない家系から出る新しい祭司職の予型です。
おそらくおそらくキリスト自身だったのでしょう。
R
アダム→1000年→ノア→1000年→アブラハム(メルキゼデク)→1000年→ダビデ→1000年→キリスト
この図のように神は千年ごとに、時代の区切りとなる神の祭司を立ててきました。ダビデが礼拝に賛美を取り入れるシステムを取り入れることができたのも、それは彼自身が新しい祭司職の型だったからでしょう。
S
■ダビデの弱さ@男性として
ダビデの人生でもっとも大きな汚点はバテシェバとの姦淫の一件です。彼は人妻と関係を持っただけでなく、彼の忠実な部下であったその夫を意図的に死へと追いやったのです。
彼ほど主を愛し、霊的であった人間が、そのような過ちを犯し、それが聖書にしるされているのは、誰であっても自分は大丈夫だといわせないためなのでしょう。
(21)
■ダビデの弱さA父として
父親としても彼には弱さがありました。アムノムの不品行(2サム13:22)に対して正しく扱うことができませんでした。自分もまた姦淫を犯したものとしての負い目があったのでしょう。それゆえ、その出来事に対して怒るアブシャロムとも向き合うことができませんでした。(2サム14:24)
(22)
アブシャロムの苦い根は芽を出し、謀反という形で現れました。それでも、負い目が負い目を呼んだダビデはバランスを欠いた判断しかできずにあやうく民全体を失望させるところでした。(2サムエル19:6)
(23)
■神の人ダビデ
ダビデは数々の失敗をしましたが、ダビデの生涯を振り返った主の評価は(第1列王記15:5)にあるように、おおむね「ダビデが主の目にかなうことを行ない・・・一生の間、主が命じられたすべてのことにそむかなかった。」でした。 神は私たちの罪を忘れてくださる方なのです。
 (24)
彼の最大の功績は、彼が主にささげた賛美礼拝でした。
それについては次回の(A-A-20-礼拝様式の変遷とダビデの天幕礼拝)の中でさらに紹介していきます。