JP−A−A23  中級編 旧約聖書概論 Aグループ  (23) ヨブ記
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聖書箇所:ヨブ記
A
ヨブ記は全ての書の中で最古のものであるといわれています。つまり、モーセ五書が書かれるよりも前の時代だということです。その根拠のひとつはヨブは苦難の後も140年生きたからです。(モーセは120歳)
この書は神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられています。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのにどうして苦しまねばならないのかという『義人の苦難』がテーマです。
構成は次の4つの部分に分けれます。(1)導入部 (2)三人の友人の論議 (3)エリフの主張 (4)神の応答
B
■導入部分
(A)神の会合に顔を出すサタン
どうして神と神の子供たち(御使い)の会合にサタンがとがめられることなく顔を出すことができたのでしょうか? それは(A-A-04)でも見たとおり、彼も元御使いであり、アダムをだましたことによって一定の権威と、一定の身の安全を確保したからです。
C
(B)サタンの仕業や偶発的な不幸を利用される神様
不幸や事故というものは神からくるものではありません。しかし、この世界が不完全な状態なので偶発的な事故が起こったり、病気になったりします。神はそれらのことを、私たちの考え方を変えさせたり成長させるために用いられます。ですから、その結果、あたかも神様がそれを計画されていたかのようによい結果が生じることがあるのです。(一例:ラザロのよみがえり「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。ヨハネ11:4」)
D
しかし、そのような神の御業を見たからといって、神がわざとそれをしたわけではありません。ですから、不幸な出来事は「神の御心だった」というよりは「神が全てを益としてくださった」と言うべきです。
サタンの仕業も同様で、神が彼の活動をよしとしているわけではありませんがそれを用いられるのです。
E
いずれにしても、ヨブが直面した苦しみと試練の理由は彼自身になかったのです。彼の苦しみは自分の罪のためのものではなかったものです。罪から清められる懲らしめでもありませんでした。
F
(C)神が与えた許可の中でのサタンの活動
サタンの活動は神が許可を与えた範囲内でしか行うことはできません。
どうして、神はそのような許可を与えたのでしょうか?私は正確にはわかりませんが「一点の曇りもないヨブを得たかったゆえであった」かもしれません。
G
ヨブの人生観
(ヨブ1:21) そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブは全ての源は神であることを知っていました。それゆえ、神にゆだね、神に栄光を帰したのです。
H
■三人の友人の論議
三人に友人はヨブを励ますために訪問しました。しかし、結果的には、ヨブの不幸には何か理由と原因があるとかんぐり、あら捜しをはじめ、それによってヨブが苦しめられることになりました。
I
彼らの言葉は、多くの場合真理、真実も含まれています。しかし、にもかかわらず、その言葉の中に不真実も含まれ、また、神の御心でない言葉も含まれているとしたらそれをどのように理解すべきなのでしょうか?
J
そうなってしまった原因のひとつは、彼らは理解できないにもかかわらず何かを語ろうとした事だと思います。
言葉を付け足したり原因を解釈しようとする時に間違いが入ってしまっているのです。
友人達の言葉のもうひとつの問題は問題はヨブを神から引き離そうとしたことです。事実、その結果、ヨブはに起こった事は自分の義を握り締めることでした。もともと彼はそういう人間ではなかったにもかかわらず、
K
■ヨブの霊的な識別
新改訳聖書ではわかりにくいですが、ヨブは (新共同訳)26:4)で「 誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか。」と語りました。
これは、あなたの言葉は何の霊によって語っているのか?あなたは誰に用いられているのかと言う意味です。
L
つまり、人間の語る言葉というものは、本人は良かれと思って語っていることであっても、間違った霊によって語り、相手を傷つけたり混乱を与えることもあるのです。
M
■三人の友人の立場であったならどうするべきであったか?
(1)ヨブの立場に立つこと。:三人の友人の語る言葉は多くの正しい言葉を含んでいました。しかし、それはヨブの助けになりませんでした。事実彼は「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。(ヨブ記6:14)」と語っております。相手を建て上げる言葉を語るべきなのです。
N
(2)共に泣くこと。:イエス様はラザロをよみがえらせるつもりでした。完全な解決を持っていましたが、その彼ですらマリヤ達と共に泣いたのです(ヨハネ11:35)。そうであるなら私たちも泣くものと共に泣くのです(ローマ12:15)。「重荷を負いあうこと」はキリストの律法を全うさせることです(ガラテア6:2)。
O
(3)共に神の元へ行く:
全ての解決と慰めの源は神様です。ですから神の元へ行くことを求める必要があります。しかし、彼らのアドバイスはそうではありません。おそらく神についての知識はあっても、人格的な関係は持っていなかったのでしょう。その表れとして三人の友人はヨブのために祈ることをしていません。
P
■ヨブの独白
 友人達の論争が一段落した後、ヨブの独白が続きます(27〜31章)。ヨブは、友人に対して、「あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない」(27:5)と言い、自らの潔白を強く主張しております(31章)。
Q
■エリフの主張
エリフの主張は他の3人の主張とは異なっており、レベルがより高く良いものです。しかし、ヨブがそれに対して反論する前に神が介入され、神もまた、よいとも悪いとも言われなかったので神の目か見てどうであったのかについては検証はできません。
R
■神の応答
 最後に神ご自身がヨブに語りかけられます(38〜41章)。 神はヨブの疑問について直接答えませんでした。エリフのよい言葉さえ評価されませんでした。むしろ、創造と偉大な御業を示し、「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(40:8)と語られました。
S
■ヨブの応答と神の報い
それに対してヨブは、悔い改めて神の前にひれ伏すばかりでした。(42:1〜6)。主が絶対的な力を持っておられることを知るときに、自分のルールは全て無効になるのです。
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■ヨブを弁護される神
神はヨブを責めました。しかし、友人たちの前では彼を義とし、なんと「ヨブは正しいことを言っている」と宣言されたのです。これは、私たちを訓練するが敵の前で私たちを義とされる神の姿です。
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ですから、私たちは失敗したとして必要以上に責めを受ける必要はないのです。神はわれわれを義とされるのです。神は、もともと不完全であったヨブをサタンの前では「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。」(ヨブ1:8)。と賞賛した理由もこれです。
(23)
それと同時にサタンが神にいちゃもんをつけた理由もこれです。このことからも、今日多くのクリスチャンが、自分はふさわしくないとかきよくはないということで責めを感じていますが、その部分がサタンとの霊的戦いの中心であることがわかります。 神はすべてを知った上であなたを義としてくださるのです。