JP−A−A36  中級編 旧約聖書概論 Aグループ  (36) 小預言書(前半)
19/09/221/2  ● ■・■

 聖書箇所:ホセアヨエルアモス
A
これらの書が小預言書と呼ばれるのは「イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル書」などといった大預言書と呼ばれるものに対して分量が少ないからであって、預言の優劣を指しているわけではありません。
B


◆ホセア書
この書を理解する大原則は、神とイスラエルの民との関係を結婚にたとえていることです。そして偶像礼拝を姦淫、あるいは売春にたとえています。エゼキエル16:8にあるように、神とイスラエルの関係は結婚でしたが、イスラエルは異邦の神々を慕うようになってしまいました。
C
イスラエルとの関係が結婚だということはエゼキエル16章8節前後に表されています。
D
(1:2)でホセアに命じられた「姦淫の女をめとれ」という言葉は主がイスラエルを見出しあがなったことを現しています。しかし女はまた古い生活に戻ってしまいました。ですから、(3:1)の再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ」という言葉は主は再びイスラエルをかえりみられることをあらわしています。
E
確かに主は再びイスラエルをめとりました。しかしこれは(申命記24:4)によると「彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。」とあるように律法違反です。
F
主が自らの定めを破ってまで民をかえりみられたのは、神の愛は律法の定めよりも高い位置にあるからです。
G
律法は、究極的には私達をキリストに向かわす為のものです(ガラ3:24)。その本体である「信仰」そしてその創始者であるキリストが現れた今、律法という養育係の下にはいないのです(ガラ3:25)。
ですから、律法を文字通り守るのではなく、それが何を語っっているのか、その本質を知り、そして神に向かうことを求める必要があるのです。
H


◆ヨエル書
ヨエル書の主題は「ぼろぼろになった状態からの回復」です。
I
2:25 「いなご、あるいは、バッタ、その若虫、噛みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。2:26 あなたがたは食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。主があなたがたに不思議なことをするのだ。わたしの民は永遠に恥を見ることがない。
J
2章25節の「償う」という御言葉はshalamでその意味は「完全にする」「健康、健全にする」です。
K
どのようにすれば、そのような状態になれるのでしょうか?この聖書の文脈に沿って説明するなら、2章12節から始まる言葉がカギです。
L
2:12 「しかし、今でも──【主】のことば──心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」2:13 衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。
M
涙と嘆きとは、心から自分の間違いを自覚して、悔い改めをするさまです。主は確かに、私たちを赦し、立ち上がらせてくださることでしょう。
N
この深い悔い改めは、単に人生を回復させるためだけのものではありません。本当の意味で神様を知るためにも必要なことです。神様を深く知ることができないで悩んでいる人がいます。神様と交わるといわれてもどういう意味か理解できない人がいます。
O
神様を知る手段と言われていることがたくさんあります。賛美礼拝の中で主の隣在に触れることや、御言葉から深い啓示を受け取ること。異言で祈ることによって神に近づいていく方法などです。
それらは、良いことですが、教えられたからと言って、そのような方法ではなかなか神様を知ることができないというのが現状ではないでしょうか。いったい何が欠けているのでしょうか?
それは、心からの悔い改めです。
R
この心からの悔い改めとは、本来イエスキリストを心に受け入れて救われるときに体験するべきものかもしれません。しかし今日語られる福音は、(これは私が反省するべきことでもありますが)お手軽なものになっております。それゆえ、その体験をしないまま、長年クリスチャン生活をする人も出てきます。
しかし、どのような人でも、人生のある段階において、そして何度でも心からの悔い改めが必要なのです。
Q
また、このヨエル書の展開に沿って解説するなら、聖霊が注がれるときに、私達の人生やさまざまな場面で回復の業がなされます。
R
2章23節に「初めの雨と後の雨」についての記述がかかれています。これは霊的な解釈では、聖霊の注ぎが教会時代の初期と最後に起こることを意味します。その始まりはペンテコステの日に人々が聖霊のバプテスマを受けたことに発しています。この雨は「秋の雨と春の雨」とも言われています。これはイスラエルの雨季が基本的に秋から冬にかけてで、秋の雨が種まきの雨で、春の雨が収穫の雨であることから始まっています。
後の雨は20世紀から起こった聖霊の注ぎ、癒し、しるし不思議などの出来事をもたらしました。
そして何よりも、大規模な魂の救いです。今日世界中でリバイバルが起こっております。
S
そのことは3章28節(新共同約では3:1)にペンテコステの日に聖霊が注がれたことについてペテロが引用して説明した御言葉が続いていることからわかります。
(21)
3章は終末に関する預言です。(3:9〜10)の「聖戦をふれよ、鋤を剣に打ち直せ」という言葉は、イザヤ書2:4の真逆のことについて書いていますが、イザヤ書は千年王国について書いているのに対して、ここではその前のいわゆる最終戦争の出来事について書いております。
(22)


◆アモス書
9章11節に最近良く聞かれるダビデの幕屋についての御言葉が書かれています。よく読むとこの箇所は幕屋ではなく「仮庵」とされています。最近良く聞く解釈では、祈りのムーブメント、特に、24時間の賛美と祈りについて指していますが、それは今日における拡大解釈であることを知る必要があります。
(23)
この御言葉の第一義的解釈は「キリストの十字架と復活」であることが使徒の働き15章16節を見るとわかりますが、それによって異邦人にも救いがもたらされることです。事実12節には「すべての国々を手に入れるためだ」と書いてあります。
(24)
もちろん、拡大解釈が悪いことではありません。それによって祈りや賛美について励まされるのはよいことです。しかし、キリスト教の歴史的経緯や教えの変遷、そして第一義的なものが何であるのかを知らないで、ただ、ひとつのことだけが強調されるなら、周りの賛同を得れなかったり、世代を超えて受け継ぐべき祝福を逃してしまうことになってしまう危険があります。
(25)
その事は、アモス書の言葉が「幕屋」ではなく「仮庵」であることをみるとわかります。その混同はギリシャ語で天幕も仮庵も「Skene」だからです。しかしヘブライ語では「仮庵」と「幕屋」を明確に区別しています。
ですから、アモス書の言葉がダビデの天幕礼拝を指しているとは直接的にはいえません。しかし、拡大解釈する分には問題ありません。
(26)
「拡大解釈」や「類似」というものに対して寛容である姿勢も必要です。たとえば、ローマ8章26節に書かれた、「霊のうめき」というものが、異言の祈りであるとは思いません。それは拡大解釈ですが、それをあたまから否定する必要はありません。
異言の祈りをするときに、それが霊のうめきへと変えられていくこともあるからです。異言の祈りは入りやすいもので、一度体験したら、決心すればだれでも祈り始めれます。その入り口から入って、さらに深い聖霊の働きをもたらすことができるのです。