JP−A−A39  中級編  旧約聖書概論 Aグループ  (39) エステル
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エステル記は神の節理について語っております。無名の若い女性が当時世界最強国の王妃となる物語です。
エステル記には神の名が登場しませんがこの物語全体が神の計画の雛形となっております。

(A) エステル記を知る上で誰が何の雛形でるのかを知ることは重要です。
(1)アハシュエロス王は神の雛形です。
(2)エステルは教会を表しています。
(3)モルデカイは影で適時アドバイスを与える聖霊を象徴。後にキリストを表す。

(B) 教会は、準備の期間が必要です。
六ヶ月の喪の期間。 六ヶ月の着飾る期間。
エステティックという言葉がありますが、エステルはその語源です。

(C) へりくだった心によって王の好意を得る
2:15 さて、モルデカイが引き取って、自分の娘とした彼のおじアビハイルの娘エステルが、王のところにはいって行く順番が来たとき、彼女は女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意を受けていた。

(D) ユダヤ人虐殺の命令 神への不従順が後に災いをもたらした。
ハマンはアマレクの子孫である。=サウル王はアマレクの絶滅を命じていたが滅ぼしつくさなかった。その時のつけが、ここにきてやってきたのです。
また、そもそもどうしてこの地にユダヤ人がいるのかというと、エズラが神殿を再建したときにも、離散の地の居心地が良かったので、そこにとどまり続けたからです。

(E) 神の民を憎むサタン
ハマンは、彼はモルデカイがひざをかがめないのを見て憤っていました。
その後聖書を読んでいけばわかりますが、ハマンはモルデカイの態度ひとつで一喜一憂していました。
心が傷ついており、自己増が低く、心が満たされておらず、常に不安があったことを表しています。
ハマンは王をそそのかして、ユダヤ人を虐殺する許可を得ました。

(F) 人間的な助けではなく、心を砕くこと
ユダヤ人虐殺命令を聞いて、モルデカイは、お城の門のところで、衣服を裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で嘆きました。エステルは、「まあ、可愛そうに」あるいは「見苦しい粗末な衣装」とでも思って綺麗な衣服に着替えさせようとしました。しかし、彼はそれを受け取りませんでした (4節)
エステルは宮殿での生活に慣れてしまって、繊細な感覚がなくなってしまったようです。

粗布を着ているからといって衣服を届けるというのはあまりにも短絡的な解決方法です。本当はその原因や、動機を見るべきです。私達の行動も、表面的に解決を求めていないかどうか考えてみる必要があります。

(G) 決死の信仰
4:11 「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません。」

これはエステル記で一番有名な御言葉です。
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。
 4:14 もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
 
4:16・・たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」

(H) 王の勺は仲介者なるキリストを象徴します。
王の許可が無く王に近づくものは殺されますが、王が勺を差し出せば、そのものは生きます。
この杖は、イエスキリストを表しています。このことは他の御言葉の裏づけもあります。

セカリヤ書11:7 私は羊の商人たちのために、ほふられる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、他の一本を、「結合」と名づけた。・・・ 11:13 ・・・「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

キリストは銀貨30枚で売られたことも(マタイ26:15)その解釈を助けています。

(I)大胆に神の前に近づく
ヘブル4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

(J)とりなしは霊的流れを変える
そのとりなしの結果、霊的状態が変えられ、流れが変わりました。
モルデカイを殺そうと思ったハマンがモルデカイに栄誉を与える役まわりになりました。(6:10〜12)

■変えることができない法則
8:8 あなたがたはユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」

王の命令は絶対です。ですから、最初に出したユダヤ人を滅ぼすという命令は変えることはできません。それを変えることは王の威信に関わることです。
それゆえ、それを無効にする命令がなされました。その命令とは「どの町にいるユダヤ人たちにも、自分のいのちを守るために集まって、自分たちを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、虐殺し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪うことを許す」(8:11)という法律です。

この原則は私達の救いにも当てはまります。
ローマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

決して取り消すことが出来ない、罪と死の法則はいのちの御霊の法則によって取り消されたのです。

このことは、どうして飛行機が空を飛ぶのかと似ています。神様は万有引力の法則を打ち立てられました。これはこの地上にあるものの全てに適応され、逃れることが出来ません。つまりすべてのものは浮かび上がることが出来ないのです。

しかし、航空力学の法則という別の法則により、飛行機は空を飛ぶことが出来ます。万有引力の法則がなくなったわけではありません、ただ、それを上回る力を持った法則が適応されたのです。救いも同様です。

ユダヤ人絶滅の日をくじ(プル)で決めたことにちなんで、ユダヤ人の解放を祝う日をプリムと呼びます。
呪いの象徴を勝利の象徴へと変えられたことは、死刑の道具である十字架が、救いと祝福の象徴へと変えられたことに似ています。