キリストの信仰によって救われる

キリストを信じることによって救われるとクリスチャンは一般的に言います。

それは確かにそうなのですが、その信仰とは何か頑張って自分で獲得するものと言うよりは、その信仰ですらキリストが与えてくださるということがギリシャ語原語から聖書を見るなら読み取れます。

今回はそれについての解説です。


新改訳聖書をはじめほとんどの聖書は以下のように訳してありますが・・

ローマ書3章22節(新改訳2017版)
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。

ガラテア書3章22節(新改訳2017版)
3:22 しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。


実際には「〜を信じることによって(〜に対する信仰によって)」と書かれた部分は=単に信仰=? 4102. pistis (スティス) 243回?信仰

なのです。

ですから正しい翻訳は「イエスキリストの信仰によって救われる」なのです。

(KJV) by faith of Jesus Christ = イエスキリストの信仰によって


※ ただ、残念なことに(NKJ)ではリニュアルされた際にthrough faith in Jesus Christに変えられてしまっております。


ローマ書3章22節(ギリシャ語言語)

δι? π?στεως ?ησο? Χριστο?,

(ギリシャ語から英語に翻訳(BIBLE HUB))through faith from Jesus Christ


ギリシャ語原典とそれを忠実に翻訳したKJV訳では「イエスキリストの信仰によって救われる」と書いているのに、どうして、翻訳が変えられてしまったのでしょうか?

それは、自分たちが信じている教理に合わせる為だったのでしょう。

もちろん、普通の考えとして「キリストを信じれば救われる」という事に対して私は異論はありません。それは自分で頑張って獲得した信仰であれ、キリストが与えた信仰であれ、私たちは自分で決心して信じる必要があるからです。

しかし、だからといって、聖書の翻訳を変えてしまう事には賛成できません。


キリストが信仰を与えることについては聖書の別の箇所を見るなら新改訳聖書でも読み取れます。

使徒の働き3:16 このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。

特にこの個所では、「イエスの名を信じる信仰」と「イエスによって与えられる信仰」の二つの面が書かれており、バランスの取れたものとなっております。


このローマ3:22の「キリストの信仰」ということばは翻訳する側も苦労の結果妥協していることが最近の文献からも読み取れます。

それはたとえば2018年に出版された聖書協会共同訳(新共同訳を発行した団体の最新訳)の翻訳作業で活発な議論があったことからも分かります。

聖書協会共同訳では「キリストの真実」と翻訳しているのですが、それには次のような経緯がありました。

日本聖書協会の季刊誌SOWERの46号からの引用。


Sower #46 2019 日本聖書協会
困難をどう乗り越えたか
(島先)今度はすこし話題を変えまして、困難をどういうふうに乗り越えたか、大変だったところに焦点を当てていきたいとおもうんですけど。

(阿部)やっぱりピスティス問題ですよね。かなり遅くまで続いた議論だったと思う。初めの頃は、新約部会、訳語検討会とか、そういうレベルでは「信実」というのが圧倒的多数なのですよ。その頃もわたしは「信仰」で行くべきだという言い方をしていた。最終的に「真実」ということにした。ただ、そうすると、ロマ書で、どこまでを「真実」、どこからを「信仰」と訳さなきゃならないという問題が起きるんです。・・・

この記述から読み取れることは、「イエスキリストの信仰によって救われる」というのが正しい翻訳であることを知りながら、伝統や、周りのプレッシャーによって、時には「信実」という言葉を作り出すなど案を出し合うなどして苦労した様子が読み取れます。


しかし、私たちは、何のしがらみもないのですから、普通に素直に翻訳して、「イエスキリストの信仰によって救われる」と読めばよいのです。

実際、私たちが救われたのはキリストが私たちを選んでくださったからです。

ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。