JP−@−A0041/2 基礎の学び 2026年版(ver.9) Aグループ 神との関係 

04 罪の悔い改め  ■・■ 2025/06/21

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(ポイント)神との関係を妨げている事柄を取り除く(ここでは特に罪について)
他の人を赦すことについては、第2コース(B)の人との関係で取り扱いたいと思います。

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「救い」はキリストを信じたときに、即座に手に入れることができます。また過去に犯した罪、未来に犯す罪の全てが赦されます。あなたはこれからも罪を犯すかもしれませんが、今はもはや罪の奴隷ではありません。
神自身ですら、私達の過去の罪をお忘れになられます(ミカ書7章19節)。

[03]

ですから、私たちもまた、それを思い起こす必要もないはずです。けれども、救われた後、時間をかけて過去の処理をする必要がある場合もあります。 というのも、私たちの過去を逆手にとって責め立てるサタンがいるからです。自分の良心と敵との間に隙を作らないためにも、その時々に応じて自分の罪を神の前にさらけ出すことはあなたの信仰生活の歩みをスムーズにすることでしょう。

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1)すべての人は罪人である
以前にお話しましたが、罪とは心の性質です。みだらな思いを抱いても法律では裁かれませんが「情欲を伴い女性を見る人は姦淫の罪を犯している」と聖書にあるように。法律に触れなくても神の目には罪なのです。

[05]

同様に、人をうらやんだり、競争心を持ったりすることも神に喜ばれることではありません。
そういう意味において、すべての人が何らかの罪と呼ばれる悪い心の性質を持っているということです。

[06]

2)罪の悔い改め
その罪の鎖を断ち切る行為が「悔い改め」です。
悔い改めとは、単に過去にした出来事を思い出して、悲しむことではありません。
泥棒でつかまった人がオイオイ泣いていたので、その理由をたずねたら、「逃げるときに、靴が脱げてしまったので早く逃げれなかった。くやしい」といいました。これは後悔であって悔い改めではありません。

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また、単に、悪い事をしていたのをやめるだけではありません。
あるところに他の人をいつもうらやみ、ねたんでいる人がある所にいました。ところが、競馬で大勝ちし、しばらくの間、懐があったかかったので、もう人をねたんだりしませんでした。

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しかし、これは、妬むのを休んでいるだけで悔い改めではありません。心の悪い性質が取り除かれていないので、お金が無くなったら、いや、あるなしに関わらず、また、人を妬んだり、うらやんだりすることでしょう。

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「悔い改め」という言葉の意味は今まで進んでいた方向を変えて反対の方向に向かうことです。ですから今までしてきた悪い事を単にやめるだけではありません。

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3)方向転換と悔い改めの実
エペソ4:28) 盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。

[11]

聖書は盗みをやめるだけでなく、与える人になるように言っています。
それは、その人の人生の方向が全く変わってしまったことを意味します。そのように、本当に悔い改めているのであるなら悔い改めの実は行動によってあらわされるはずです。

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4)罪の告白
(詩篇32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ 32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

[13]

現代多くの人が精神的に病んでおり、罪責感、拒絶感を感じています。その原因のひとつは、隠された罪や、汚れた思いである可能性があります。しかし、神に罪を告白するなら、赦しを受けることができるのです。

[14]

中世までは、人々は神と直接関係を持つことができず、罪の告白も、祭司に向かってしなければ有効ではないと教えられていました。しかし、その考え方は正しくありません。クリスチャンは万人祭司であり、「すべての人が直接神様と関係を持ち、彼に向かって告白するなら、罪の赦しを受けることが出来る」のです。

[15]

しかし、それにもかかわらず、個人的に、何度も神に祈り告白しても、その罪の誘惑から解放されなかったり赦しを確信できないことも起こります。
それは、サタンが「まだお前は赦されていない」とかいって偽りを私たちに吹き込むことがあるからです。
サタンの名の意味は「訴える者」です。(黙示録12章10節)

[16]

ゼカリア3:1)・・大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。・・・3:3 ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。(中略)・・「彼の汚れた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしはあなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」

[17]

赦されているはずなのに、責めを感じる、体調がすぐれない、などといった場合には、神が与えた方法をすべて用いる必要があるかもしれません。それこそ教会というコミュニティーが本領を発揮する時です。

[18]

5)解放とコミュニティー
個人的に神様に繋がれる事は16世紀の宗教改革で勝ち取った真理です。しかし「まったく他のクリスチャンの助けは必要ない」「誰にも自分の弱さや罪を伝える必要は無い」と言うなら、それは別の意味での極端です。

[19]

聖書には次のように書いています。
(ヤコブ5:16) ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

[20]

この御言葉にあるように神との関係だけでは、十分に罪の赦し、あるいは癒しや解放を実感できなかったりしてもコミュニティーを通じて、人との関係の中で、効果的にそれらがなされていくのです。
なぜなら、神の計画は人が個人だけで直接神とつながることだけでなく、人とつながり、人を交えて互いに神とつながることだからです。(マタイ18章20節)「二人または三人が・・・」

[21]

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章7節)

[22]

■コミュニティーの力
(ガラテア6:2)互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法※を成就することになります。

[23]

キリストの律法」とは旧約の律法とは異なり、本質的に神が人に求めている事柄です。とはいえ、人の行いでは神が求める基準を満たす事はできません。それでも、神の定めは「互いに重荷を負い合いあう事」すなわち「コミュニティーの中にとどまる事」なので、それをもって、律法の要求が全うしていると認められるのです。

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このコミュニティーを通じての癒しというのは、過去の悪い経験、トラウマ、悪霊との間違った契約、人を赦していないことから来る束縛などといった事柄からの解放のために効果的です。

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また、依存症といった事柄から解放されるのに有効なことは、問題に光に当てる事(他の人に告げて祈りあうこと)です。何か思い当たるふしがある人は誰か信頼できる人に分かち合ってみると良いでしょう。