JP−@−B−01− 基礎の学び 2026年版(ver.9) Bグループ 人との関係 

(第1) はじめに・心の傷の癒し  2025/07/15

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■ 過去の傷を取り扱うこと
無意識のうちに人が誰かを避けることがあります。また、拒絶しているかのような行動をとってしまうこともあります。
そういった行動の奥底にあるのは、実は、目の前にいるその人が原因というよりは、それ以前に別の人から受けた過去の心の傷が、目の前にいる人に投影して反応してしまっているだけということもあるのです。

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ここでいう心の傷とは、明らかなトラウマ的な出来事についてだけでなく、成長過程で形成された人生観や、思考回路の形成なども含めた、さまざまなものを含んでおります。

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キリストがこの地に来られた理由の一つは「心の傷ついた者を癒すため」(イザヤ書61章1節)でもあります。
ですから神様は私たちの心の傷を癒すことができます。
ところが、神様の元に行けば癒しを受けとれるのに、心の傷があるときに、神様が用いる心の傷の癒しの道具である(後で説明しますが)コミュニティーとしてのクリスチャンの交わりが妨げられてしまうという問題が生じるのをよく目にします。

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なんという皮肉でしょうか、心の傷が癒される機会が、心の傷によって奪われてしまうということです。そのような状態では、何年も教会に集い、賛美しメッセージを聞いたとしても、解放されないこともありうるという現実があるのです。

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日本では「人が救われても、教会に集い続ける年数は平均2年半である」と言われております。これはデータに基づくものではありませんが、牧師一般が感じている実感としてはそうだということです。そうなってしまう、決して少なくない理由が、心の傷を放置していることで、ある意味、「岩地の心」(マタイ13:5-6)に福音の種をまくようなものだからです。

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そのようなわけで、このBコースでは「人との関係」というテーマを通じて、整えられたものになるためのディスカッションの題材を与えていきます。本日の学びは、その前置きとして良い種を植える(マタイ13章1節〜8節)為の準備です。

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■ 神様が用いる癒しの2つの方法
神様が用いる心の癒しの方法は大きく分けて2つあります。一つは霊的な方法であり、もう一つはコミュニュティーを通じた方法です。とはいえ、後で説明いたしますが、後者の方法も実際には神様の霊が大きくかかわります。

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.1)聖霊の力による
聖霊は、ヨハネの福音書15章ではパラクレトスという言葉であらわされておりその意味は「弁護者、傍らに呼ばれた者」です。別の個所ではキリストをカウンセラーと呼んでおります。
ローマ5章3〜5節では苦難の中で、聖霊を通じて、神の愛が注がれるとあります。この無条件の愛に触れられることによって、癒しがなされます。それを促進させる代表的な方法は、御言葉、賛美、祈り、特に異言で祈ることなのです。

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.2)コミュニティーを通じて
コミュニティと言うと、これまで語ったような「共感」「傾聴」等をきっかけとした癒しのステップだと思われるかもしれません。確かにそれもありますが、しかし、コミュニティーを通じて聖霊の力が働く事も知っていただきたいです。
といいますのも、健全なコミュニティーが形成されると、キリストご自身がそこに臨在されるからです。

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マタイ18章20節に「二人か三人がキリストの名によって集まる時にそこにキリストがそこにおられる」とあります。そして、その1つ前の節には「心を合わせて」とありますので、すなわち、一致したコミュニティーには神の霊が強く働くのです。

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そして、そこに重荷を負いあう雰囲気があるなら、(ガラテア6章2節)の「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」という言葉が実行されます。それはつまり、たとえ不完全な私達であっても、神様の基準を満たしたとみなされるという事です。これは癒しの為の大きな力となるのです。

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■ 人は癒しの道具
さて、他の人に対して過敏な恐れを持ったり、普通ではない反応をしてしまう場合、それは、目の前にいる人が問題というより、過去に起こった隠された問題が原因であることについて語りましたが、そういう意味では、「教会に集うようになってから、心の問題が表面化するようになった」つまり「人との関係に問題が生じるようになった」ということもあり得ます。
それは、神があなたの心の深い部分に癒しをもたらすための心の手術に着手したからかもしれません。

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神様が癒しをもたらす為に周囲の人間を用いることの聖書的根拠はこの御言葉です。

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(ヨハネ11:43-44) そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

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これはキリストが死んだラザロをよみがえらせる場面です。ラザロのよみがえりは私たちの魂がキリストを信じて救われる事の象徴的です。ラザロは死んで3日たち体も腐っていましたが、キリストは神の力と権威で彼を一瞬に蘇らせました。同様に私たちも、死んだような人生を歩んでいても、キリストを信じることにより一瞬にして救われることができるのです。

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しかし、自動的にすべてが、回復したわけではありません。ラザロは確かに蘇りました。しかし、彼の体は包帯が巻かれておりました。彼がそのままの状態では、包帯に束縛されているので、まともな生活はできません。
だからといって、キリスト自身が包帯を解いたわけではありません。イエスは周りにいた人達に解くように指示しました。

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これは私たちの人生にも言える事です。イエスを主と信じれば一瞬で救われますが、それだけで全ての傷が癒され、過去の呪いや束縛から解放されるとは限りません。多くの場合、癒しがもたらされる為に、それらがひとつづつ解かれなければなりません。ラザロの解放に周りの人が用いられたように、人との関係が癒しをもたらす道具となるのです。

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ところが、癒しの道具といっても、時にはあまりかっこいい役割ではありません。
第一の用いられ方は、もしかしたら、ぶつかり合って問題の所在を知らせるセンサー的な役割かもしれないからです。レントゲンやCTスキャンのように、人間関係のストレスは問題を抱えた心の部位があぶりだされてくるのです。
たとえば結婚生活で起こりがちな問題や物事を複雑にしてしまう原因は、目の前の伴侶というよりは、過去から引きずってきたものである事が多いです。もしそうなら、憎らしい伴侶の存在も敵ではなく「神様の道具」ともいえるのです。その様な視点を持てるなら、起こりうる様々な人との関係のストレス的な状況に対して、客観的に見る事ができます。

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これは大切な点です。教会のメンバーを含めて、他人との人間関係に問題を感じるときに、(確かにその相手の人に問題があったり、相手の人が弱さを抱えていることもありますが)、集う事をやめたり、関係を絶ったり、引きこもっていてはもったいないです。それは問題にふたをしているだけなので有効な解決にはならないからです。

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神様が成される癒しは、目の前の問題解決だけでなく、過去の傷を含めてすべてであり、全人格的なものだからです。

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■癒しの為の最初のステップ
人によって傷つけられた傷は、人を通じて働く神様の働きによって癒されていくので、私たちは互いに重荷を負いあい、祈りあうことができます。ここで、癒しのステップのすべてを書き出すことはできませんが、ポイントだけを書きます。

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最初のステップは、自分の問題に、過去の傷、特に親子の関係の中で受けた傷があることに気が付くことです。
しかし、多くの人は、それに気が付きません。自分の中に、もやもやする闇があることを感じながら、原因が分らず生きているからです。ですから、その対処のために、さらにその前の段階ともいえる「ステップゼロ」が必要です。

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それは、「傾聴」というか、その人の話に耳を傾けることです。それは、その人の内側にあるものを引き出す事ですし、それそのものによって、その方の心が整理されるきかっけとなることでしょう。

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基礎の学びでも誰かの発言に対して、その場でそれに言葉をかぶせて教えたり諭さないようにしてるのはその為です。

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そして癒しの過程をスムーズに実現するために教会の中に必要なのは弱さを受け入れあう雰囲気が必要です。愛と一致の雰囲気があるなら、そこに神の霊が働きます。なぜなら、それこそ神の御性質だからです。それによって、教会という人が集まる場は、人が癒されるための神の道具となるのです。

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また、信仰歴の長い人、リーダ的立場の人たちこそ、自分の弱さや葛藤、そして失敗を分かち合うべきです。それによって周りの人たちは、立派に見えても「実はみんな大したことが無いんだなと」と安心できるからです。そこが緊張感のを持つ必要が無い安全な場所だとわかるなら、自分自身の事を心をオープンに分かち合うことができるからです。