JP−@−B−02− 基礎の学び 2026年版(ver.9) Bグループ 人との関係 

(第2) 過去の傷と赦す事  2025/07/17

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■過去に受けた心の傷が与える影響
人が持つメカニズムの一つに「記憶や心の遮断」というものがあります。
これは、人が嫌な思いをしたときに、心を守るために、発動される心に備えられたシステムです。
それは、その時点でのサバイバルとしては役立ちますが、後の人生に影響を与えます。それは、過去のトラウマに関連づけられた状況が生じた場合には、過敏に反応してしまったり、心を閉ざしてしまうからです。

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反応と言っても、無意識のうちに他の人との間に距離をとってしまうような些細な事かもしれません。
いずれにしても、過去の傷が大きければ大きいほど他人と関係を持つことがより難しくなってしまいます。

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人との関わりを避ける時に2つの問題が生じます。ひとつは過去の出来事によって、束縛され続けることです。もう一つの問題は、コミュニティーを介して癒しが始まるはずなのにその機会を遠ざけてしまうことです。

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■赦す事について
さて、心の傷については、語るべき事が多くありますが、今回は「赦し」について取り上げます。といいますのも、傷の癒しを通る中で、いずれかの時点で自分を傷つけた人を「赦す」という課題にぶつかるからです。

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まず言いたい事は、これは基礎の学びの特徴的な性質上「赦さねばならない」という教えではありません。結果的にそうなる事を願いますが。それにはプロセスがあるので、単なる御言葉への従順以上の結果を願います。

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(マタイの福音書18章24節−35節)は赦しについての重要な教えです。
最初に登場する男は多大な負債が王にありました。(この王は神様の象徴であり、借金とは私たちが犯した罪の象徴です。)彼は王に返済不能な現在の貨幣価値で数千億円の借金がありました。これは、私たちが負っていた「罪」という神に対する負債は、自分の命に代えても払いきれないほどだということです。
にもかかわらず、この王は寛大にも借金を帳消しにしました。彼を哀れに思ったからです。この出来事は神がキリストによって私たちの全ての罪を赦し、私たちを自由にされたことを表しています。

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それなのに借金を免除された男は、自分より小さな負債を負っている人を赦してあげることが出来ませんでした。小額ではありませんが、数千億円に比べたら無きに等しいものです。自分の多大な負債は免除してもらったにもかかわらず他の人を赦すことができなかったこの人は最終的に牢屋に入れられてしまいました。

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私たちが他の人を赦さないということは、このような状態です。たとえどれだけ自分が傷つけられたり害を受けていたとしても、私たちが神に対して負っていた罪という負債に比べたらそれは非常に小さいものなのです。

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自分を傷つけた人を赦す事が難しい人には、厳しい聖書箇所ですが、これは裁きの為ではなく、現状を理解した上で私たちの重荷を荷なってくださる、憐れみ深い神様の慈しみを理解する上でも必要なことなのです。

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「赦し」が聖書の命令なので、苦しくても、形だけでも、それをしなければいけないといっているわけではありません。ただ、聖書は私たちのあるべき姿を示して下さっているのです。そしてそれは、私たちを圧迫するための戒めの言葉ではなく、私たちを自由にするための神の愛の言葉なのです。

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ある人は、赦してしまうと、その人の為にならないと考えます。しかし、赦しは、相手がした事に許可を与えたり容認することではありません。ただ、神にゆだねることなのです。

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(ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

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「赦さない」というのは、たとえ手を出さなくても相手に復讐をすることです。それは神を排除した行為となります。私たちは自分で復讐をする必要はありません、神にゆだねるなら神自身が対処してくださるからです。

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■赦さないことは自分を束縛すること
「基礎の学びのBグループ」では「人との関係の壁が神に近づくことが妨げる」ことについて見ておりますが、
その意味において、神様との関係を妨げるものの一つは「誰かを赦していない」ことでしょう。

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被害者は、その相手を憎み続ける権利が自分にあると思うかもしれませんが、そうではありません。
人を赦さず、恨みを握り締めているときに、それはその人をいつも握って生活している事を意味します。
たとえば、いつも片手で何かを握りしめて生活することを想像してください。それは片手が使えないので不自由な生活です。心の問題として人を赦さないことも同様です。赦しとは自分自身を自由にするということです。人を赦さないときに霊的に束縛され、精神的に圧迫され、時には肉体に病気さえももたらすのです。

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1993年にロシア宣教に行ったときのことです。病院で病人の為に祈っている時に、体が横に「く」の字に曲がった人がいました。その人は、父親を憎んでいることが分かったので私達宣教チームは、その人に父親を赦すように勧めました。しかし彼女は、なかなかその決心が出来ませんでした。
そういった中で「感情では赦す気持ちにはならなくても、意思で決心すればいいのですよ。」と勧めました。

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それで、彼女は気持ちは伴っていませんでしたが、自分の意思で決断し「私はその人を赦します」と宣言しました。そると何と「くの字」に曲がっていた彼女の体が瞬間的にまっすぐになったのです。
彼女の体の異変は握り締めていた憎しみが原因だったといえるでしょう。

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■赦すことは決心
この出来事からわかることは「人を赦す」ということは実は感情の問題ではなく決心の問題でもあるのです。
それは、「基礎の学びA-02」の「十字架と救い」で信じることは感情ではなく決心と語ったことに似ています。

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■心を伴わないことの弊害
さて、そのようなわけで、人の決断、意志というものは重要なのですが、「さあ赦す決心をしましょう。」「はい。赦します」とすべての人ができるわけではありません。また、たとえ、口ではそれができたとしても、心が伴わず、心の問題が適切に処理されていなければ、後々にその弊害が生じることもありえます。

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クリスチャンによくある勘違いは、聖書の戒めに自分を合わせようとするのですが、その戒めはその人を解放する為にあるという事を忘れてしまうことにあります。文字通り従えばよいとは限らないのです。

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それは、基礎の学び「E-07パフォーマンス思考」でも取り上げる事柄ですが、物事にはその状況にいたった経緯や、人の心情というものがあるので、それを無視することは長い目で見て得策ではない事もあるからです。

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たとえば「人を赦せない人」というのは、そう考えてしまうだけの理由があります。というか、何もないのに一方的に恨む人なんてほとんどいないことでしょう。ですから、その人の回復の過程において傾聴したり、その人の「赦せない気持ち」に寄り添うことも時には必要なのです。

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また、赦せない気持ちを増幅させるものは、単に被害者だからという理由だけではなく、前回見たように、それ以前の成長過程で受けた傷、たとえば典型的なのは親子関係で受けた傷というものも、大きいです。

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親という存在は新生児から幼少期にかけては「無条件の愛」を受け取ることの土台でありますし、神様を表すひな型でもあります。特にクリスチャンホームにおいては神観にも影響を与えるからです。

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ですから、その部分も関係してくるかもしれません。そういった事は多くの場合、誰かに問題を指摘されたからと言って自分を作り変える事はできないかもしれません。ですから傾聴などの助けを必要としているのです。

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哀れみ深い神は、赦す事が出来ない弱い私たちをご存知です。御言葉のとおりに実行できないからといって神と距離を置くのではなく、そんな私たちの弱さを受け止め愛してくださる方であることを信じて近づくときに、慰めを受け取り、その慰めによって、赦せない人をも赦せるようになるのです。

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そして、その結果起こることは、その出来事の解決だけでなく、あなたが全人格的に健康になることです。