JP−@−B−04− 基礎の学び 2026年版(ver.9) Bグループ 人との関係
(第4) 交わりとコミュニケーション 2025/07/17
人によっては、教会に初めて来られた時に、そこに集っている人達が良い人ばかりに見えるので、自分はここに相応しくないと感じるかもしれません。しかし、それは神によって変えられた結果であり、最初からそうだったわけではありません。もう一つ言うなら、人に近づいて心を開いて話すなら、みんな弱さや欠点のある普通の人であることが分かることでしょう。私たちはみな作りかえられている過程にあるからです。
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そうであるなら、ここでは自分を立派に見せる必要が無いことが分かります。
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教会のことを聖書の原語でエクレシアといいます。それは人の集まりを意味する言葉です。ですから、
教会とは神を中心とした人の集まりのことであり、教会を建て上げる為の材料はそこに集うメンバーです。
それゆえ、人との関りやコミュニケーションは重要な要素となります。
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キリストを信じる者の内に聖霊が住んでいるので、私たちの何気ない会話や交わりを通じてでも神様は働かれます。それは心の癒し、啓示、預言、知恵の言葉、信仰の伝搬、体のいやしなどなどです。
ですから、教会の交わりは聖なる霊に働いていただくための器なのです。
そして、それが十分発揮されるためには、次のような原則を理解しておくと良いでしょう。
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.@ すべての人は、キリストが代わりに死んでくださったほど尊い存在である。(ローマ14:15)
.A 神様は良い方であり、すべては益と変えられるという視点を持つ。(ローマ8:28)
.B「境界線」(※1)が尊重される。つまり何かを強制される事はないし、自由意志が尊重されます。
.C 誰をも裁いてはなりませんし、誰からも責めを受ける必要はありません。
.D「傾聴」(※2)により相手の気持ちを理解することは心のいやしや回復の始まりとなることがある。
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(※1)「境界線の尊重」自分と相手が区別されている状態で、自分の身を安全な位置に置くことができる。
(※2)「傾聴」話を聞いてあげること、裁いたり教えたりするのではない。
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基本的に毎月2回日曜礼拝のメッセージの後にスモールグループを作ってメッセージに対する応答の時を持っておりますが、それは上記の原則を理解したり、実践する為の実験的な場でもあります。
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誰かと個人的に打ち明けられた話の内容は基本的には言い広めるべきではありません。
つまり、もし誰かが、あなたに心を打ち明けて何かを伝えたとしても、それを牧師やスタッフ等に報告する必要はありません。それはあなたを信頼してあなたに伝えたのだからです。
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しかし、逆に言うなら、多くの場合、それは、あなたはその問題に対処できる唯一の人だという事なので、可能であれば、少し突っ込んで、ミニストリーというか何か働きかけができるなら、されるとよいでしょう。
たとえば、不適切な発言や振る舞いをしていたとしたら、それは心に問題を抱えている兆候だからです。
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「共感」や「気持ちを理解すること」は良いことですが、相手の感情に協調してよいわけではありません。
つまり、一緒に悪口を言ってはなりません。
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また、たとえば、時には優しく「正す」必要もあるかもしれません。
(ガラテア6:1)兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(「正す手順」マタイ18:15も参考になります。)
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誰かが誰かを非難する場合でも、自分の問題点については語らない傾向があるので、先走った判断をしてはなりません。両方の話を聞くまでは状況はわからないものです。
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いずれにしても、重荷を負いすぎることはありません。「XXさんも話に加えてよいですか?」などといって他の人をくわえて、チームミニストリーで対処することができます。
あるいは、助言を必要としたり、負いきれなかったりするなら相手の許可のもとに「牧師に伝えてよいですか?」などと尋ねることもできます。
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ただ、教会でなされる相談的なものはカウンセリングっぽくても、厳密には異なることを知ってください。
それらには大きく分けて次のように段階があると言えます。
それらはグラディーション的なものなので、秘守義務がどこからどこまでなのか、あいまいな部分もあります。
また、(夫婦は一体なので)妻に話したら(共に重荷を負うために)夫に伝わることもあることでしょう。
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ですから、もし、一切他に漏れてほしくない内容の相談であるならプロのカウンセラーに頼むべきです。
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■噂話の祈りを避ける:
「祈りの課題」と称して、噂話を広めてしまう場合もあります。神は全てをご存知なので、詳細を伝えねば祈れないわけではありません。逆に言うなら、祈り会で祈って欲しい事柄については、その旨を伝えてください。「頼まなくても教会で祈ってくれるだろう」ということはあまり起こらないからです。
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■謝罪することについて
誰かに対して間違った発言をしたり行動をとった場合にはもちろん謝罪すると良いでしょう。
それはへりくだりを意味しますし、神の霊が働くきっかけになるので、状況も良くなる事でしょう。
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それでも、ただ「そうするのが正しいから」とか「クリスチャンなんだから謝るべき」という律法主義的というか心が伴っていないなら、その謝罪はあまり効果的ではありません。そして、自分自身も心を偽っているわけですから赦されたという実感はあまり感じられず、また聖霊の働きもあまりないかもしれません。
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全面降伏ではない
物事が起こるのにはいろんな要素が絡み合っているので、謝罪してもすべてにおいて自分の非を認めるという意味ではないし、相手の行動を正しいとするという意味でもありません。
たとえば、交通事故を起こしても謝ったら不利になると思い謝らない人がたまにいます。しかし通常は謝罪しても、過失割合に応じて責任の範囲を認めるという意味であって、全責任を負うという意味ではありません。
同様に、謝罪したからと言ってあなたが不当に、卑しめられるわけではありません。
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■謝罪する際の知恵
謝罪するときに、それと同時に相手の間違いを指摘することはするべきではありません。
それに至った経緯などを説明する事も、自分を正当化しようとしてると思われたら逆効果な場合があります。
ですから、和解の現場ではただ謝罪に徹した方が良いでしょう。
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同様の理由で誤解されている事があっても、必ずしもその時に訂正しなければならないわけではありません。
和解はプロセスなので、一イベントにするのではなく、段階を経る事ができるなら、その方が良いのです。
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謝罪しているにもかかわらず、赦してもらえず、逆切れされたり、追い打ちをかけられる場合もあります。
しかし、うろたえることはありません。それは本音の反応をしているのであって、良いことです。そして、相手の気持ちを真摯に受け止めるなら、後日、相手の方から「いや私も悪かったし」という反応も起こりえます。
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とはいえ、相手の反応を期待してはなりません。自分の期待する反応を求める事は境界線の侵害でもあります。
私達は、ただ自分のなすべきことをするだけなのです。
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■ 謝罪してはならないケース
実害がなければ謝罪する必要はありません。実際的に相手に害を及ぼしておらず、あなたの「思い」の中で、その人を単に恨んでいたり、ねたんでいたというような場合はその相手に謝罪したり、その罪を相手に告白する必要はありません。なぜならそれは相手に対して犯した罪ではなく、あなたと神様との間の問題だからです。
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それは次のたとえで理解できると思います。ある男性がある女性に対して「私はあなたに情欲を持ちました。」と告白したらどうでしょうか。女性は気分を害する事でしょう。それはその女性には何の関係もない事です。
そういった告白はコミュニティーを破壊する知恵のないことです。