JP−@−C−007 基礎の学び 2026年版 (ver.9) Aグループ 神との関係 

(第7) 洗礼 2025/07/07

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洗礼は、全身を水に浸ける行為によってイエス・キリストを信じる信仰の表明を公にする行為です。

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子供が死んでも天国に行けるように幼児洗礼を施す教会がありますが、「信じてバプテスマを受ける者は救われます。」(マルコ16:16)とあるように、信仰を持っていなければ受けても意味はありません。
別の極端は「信じる事実が重要で洗礼は重要でない」と考える事です。 (ルカ23:43)で十字架の上で悔い改めた強盗に救いを宣言したからです。

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これら両極端な考え方は「救いとはプロセスである」ことを理解していないからです。イエスは私達の模範として罪が無いのに洗礼を受けました。ですから、洗礼を受けることは信仰が正しい方向に向かっていることの証明なのです。

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■ 洗礼とは 〜です。
1)公な信仰の表明: 
(第1ペテロ 3:21) この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

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洗礼というのは「唯一の公式な信仰の表明」方法です。イスラム教国では命の危険にさらされるのを見ればわかります。日本の宗教観では先祖の宗派さえ尊重すれば何を信じても構わず寛容なこともありますが、洗礼を受けるとなると家族から強い抵抗が時折見られます。これはただ信じる事と洗礼を受ける事との違いを端的に表しているといえるでしょう。

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2)公式にクリスチャンとなる
私達の教会は戦略上、この世の人とクリスチャンとの境目を急激に設けずに、なだらかにすることにより、緩やかな一つの共同体としてとらえるという戦略をとっています。結果的に多くの収穫を得ることを期待しているからです。
ですから、人間的な言い方ですが、洗礼を受けていなくても、集う上で疎外感はほとんどないと思います。

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しかし、日本の大多数の教会の共通理解は、教会に毎週来ても洗礼を受けてなければ救道者扱いです。
求道者とは救いの道を求める人という意味で、未信者以上クリスチャン未満という中途半端な存在です。

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3)悪魔の支配から出た事の宣言:
(1ヨハネ5:19) 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
救われる以前は、私達はみな悪魔の支配下にありました。その支配を公式に拒否することを宣言します。

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4)古い自分を葬り去る葬式
洗礼式とは葬式でもあります。古い自分と決別し新しい歩みをする事を意味します。もし古い自分を葬らないとしたら、その死体を毎日引きずって生きて行く事になります。

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(ローマ6:4-6)キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた・・。キリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため・・。6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる・・。6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるため。

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洗礼とはイエスの死を再現することです。十字架にかかる以前の体は滅びていく肉体でしたが、よみがえった体は二度と死ぬことのない栄光化された体です。私達も洗礼を受ける時に、このイエスの死と復活を象徴的に表します。

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■洗礼とは 〜ではない
1)洗礼の行為や水が聖めるわけではありません。

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2)信仰の入り口であって完成ではない: 私達の信仰の目標はキリストの似姿になることです。したがって洗礼は信仰生活の入学式のようなものです。そして私達の信仰の成長は自分の努力によるのではなく聖霊の働きによります。
(2コリント3:18)主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
(エペソ4:13 ・・・・完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

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■ どうして洗礼を受けるのか?
1)イエスがそう命じたゆえに。:洗礼は、マタイ28章19節にあるように、イエスが私達に命じたことです。そして全ての人が受けるようにとイエス様自身も洗礼を受けられ、見本を示されました(マタイ3:15)。洗礼は罪の悔い改めの行為でもありますが、罪の無いイエスがへりくだり、洗礼を受けられた以上、私達の全ては洗礼を受けなければなりません。

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2)神との愛の関係ゆえに: (マタイ3:17) また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 単に命令だからというような義務的な理由ではなく、私達を愛してくださる父は、私達が御心を歩むときにそれを喜んでくださいます。私達もまた神を愛するが故、洗礼を受けるのです。

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■私達の信仰の表明である洗礼を受ける時に3つの存在が私達を見ています。
  1. 神様および天の御使い:  私達が公に信仰を告白するときに天で喜びがあふれます。

(エペソ1:3)・・神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
(ルカ15:7) ・・ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。

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2)教会: 教会のメンバーは神の家族として、公の信仰告白を共に喜びます。今まで見てきたように、神と関わりを持つことは、神の家族の中でなされることです。つまり洗礼式は神の共同体のものであり結婚式のようなものといえます。

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3)悪魔:洗礼を通じて公に彼の支配から出た事を宣言します。 ([07]で見た通りです)

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■ 洗礼を受ける人の心構え
聖書を見ると信じた人はすぐに洗礼を受けています。ですから洗礼を受ける為の学びを受けさせる事はもしかしたら聖書が言っている事以上の事かもしれません。しかし、私達の教会では洗礼がゴールではなく、その後の歩みを含めた長期目線を視野に入れている事もあり、受洗の条件というか、必要な心構えを知っていただきたいと考えています。

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1)信仰を持っていること : これは当然のことです。キリストを人生の主とすること。自分が罪人であることを知り、キリストが唯一の救い主であること。彼が私たちの罪の身代わりに死んでくださったことを信じる事などです。

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2)弟子となるという方向性を理解する: (マタイ28:19)「・・あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」とあるように、達成度は別として「弟子となる」という人生の方向性は意識していただきたいと思います。とはいえ、(C-5の「弟子となる」)にあるように、余分な重荷を負わせるものではありません。

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3)肉によらず御霊に従って歩む:
私たちが義とされたのは「神が定める要件を満たした」からです。それはキリストの十字架を信じたことと、神の霊が私たちの内側に住まれたことによるのですが、それだけでは、そのメリットを十分体験できないばかりか、古い生活に戻ってしまうかもしれません。ですから、私たちに必要なことは「御霊によって歩む」ことなのです。
このことについて理解する為に、ぜひ前回のC-06「御霊の内住と御霊による歩み」を復習してください。

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さて、御霊と共に歩む中で、私たちの内側から変えられていき、様々な解放が起こります。
まず日常生活の中で、ガラテア5:22−23にあるように御霊の実と呼ばれる神の性質の人格をえることができます。
そして、アルコール、ニコチン、ゲーム、ポルノなどの依存症と呼ばれる状態を抜け出すことができるのです。
ですから、そのような状態の人、あるいはその予備軍の人は、ただ解放を願うだけでなく、御霊に従って歩むプロセスを持っていただきたいと思います。 そしてまた、その人の側からも、そういったネガティブなものを避けるよう努めたり、誰かに相談するなりして、解放のプロセスを求めていただきたいと思います。

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また、信仰者としての「標準の歩み」について知っていいただきたいです。その中には「与える人になる」というものも含まれます。それは@家族や隣人に、地域に、教会に仕える事であり、A献金を捧げる事なども含まれます。

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もちろん、献金は自由意思に基づくものです。それは礼拝行為の一部なので、強制されるものではありません。
そういった中、聖書の中に、一つの基準として「収入の十分の一をささげる」こと(十一献金)について書いてます。これは、旧約聖書の記述なので、今日、どう適応するかについては個人や教会によってさまざまです。それでも、信仰者の生活の標準として良い参考例であると、私たちの教会では考えております。