JP−@−C−007 基礎の学び 2026年版 (ver.9) Aグループ 神との関係
(第7) 洗礼 2025/07/07
洗礼は、全身を水に浸ける行為によってイエス・キリストを信じる信仰の表明を公にする行為です。
[02]
子供が死んでも天国に行けるように幼児洗礼を施す教会がありますが、「信じてバプテスマを受ける者は救われます。」(マルコ16:16)とあるように、信仰を持っていなければ受けても意味はありません。[03]
これら両極端な考え方は「救いとはプロセスである」ことを理解していないからです。イエスは私達の模範として罪が無いのに洗礼を受けました。ですから、洗礼を受けることは信仰が正しい方向に向かっていることの証明なのです。[04]
■ 洗礼とは 〜です。[05]
洗礼というのは「唯一の公式な信仰の表明」方法です。イスラム教国では命の危険にさらされるのを見ればわかります。日本の宗教観では先祖の宗派さえ尊重すれば何を信じても構わず寛容なこともありますが、洗礼を受けるとなると家族から強い抵抗が時折見られます。これはただ信じる事と洗礼を受ける事との違いを端的に表しているといえるでしょう。[06]
2)公式にクリスチャンとなる[07]
しかし、日本の大多数の教会の共通理解は、教会に毎週来ても洗礼を受けてなければ救道者扱いです。[08]
3)悪魔の支配から出た事の宣言:[09]
4)古い自分を葬り去る葬式[10]
(ローマ6:4-6)キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた・・。キリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため・・。6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる・・。6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるため。[11]
洗礼とはイエスの死を再現することです。十字架にかかる以前の体は滅びていく肉体でしたが、よみがえった体は二度と死ぬことのない栄光化された体です。私達も洗礼を受ける時に、このイエスの死と復活を象徴的に表します。[12]
■洗礼とは 〜ではない[13]
2)信仰の入り口であって完成ではない: 私達の信仰の目標はキリストの似姿になることです。したがって洗礼は信仰生活の入学式のようなものです。そして私達の信仰の成長は自分の努力によるのではなく聖霊の働きによります。[14]
■ どうして洗礼を受けるのか?[15]
2)神との愛の関係ゆえに: (マタイ3:17) また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 単に命令だからというような義務的な理由ではなく、私達を愛してくださる父は、私達が御心を歩むときにそれを喜んでくださいます。私達もまた神を愛するが故、洗礼を受けるのです。[16]
■私達の信仰の表明である洗礼を受ける時に3つの存在が私達を見ています。(エペソ1:3)・・神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
(ルカ15:7) ・・ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。
[17]
2)教会: 教会のメンバーは神の家族として、公の信仰告白を共に喜びます。今まで見てきたように、神と関わりを持つことは、神の家族の中でなされることです。つまり洗礼式は神の共同体のものであり結婚式のようなものといえます。[18]
3)悪魔:洗礼を通じて公に彼の支配から出た事を宣言します。 ([07]で見た通りです)[19]
■ 洗礼を受ける人の心構え[20]
1)信仰を持っていること : これは当然のことです。キリストを人生の主とすること。自分が罪人であることを知り、キリストが唯一の救い主であること。彼が私たちの罪の身代わりに死んでくださったことを信じる事などです。[21]
2)弟子となるという方向性を理解する: (マタイ28:19)「・・あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」とあるように、達成度は別として「弟子となる」という人生の方向性は意識していただきたいと思います。とはいえ、(C-5の「弟子となる」)にあるように、余分な重荷を負わせるものではありません。[22]
3)肉によらず御霊に従って歩む:[23]
さて、御霊と共に歩む中で、私たちの内側から変えられていき、様々な解放が起こります。[24]
また、信仰者としての「標準の歩み」について知っていいただきたいです。その中には「与える人になる」というものも含まれます。それは@家族や隣人に、地域に、教会に仕える事であり、A献金を捧げる事なども含まれます。[25]
もちろん、献金は自由意思に基づくものです。それは礼拝行為の一部なので、強制されるものではありません。