★KJV only運動について★
最近ネットで「KJV only運動」とそれに反対する「反KJV」運動があることを聞きました。
私がTR聖書を推奨しており、その流れでKJVを推奨しているので、私のことを「KJV only運動」を支持していると考える人がいるかもしれませんが、それは間違いです。
TRを推奨しているだけでKJVだけが優れた聖書だとは考えておりません。
ここで説明しているようにKJVにも問題があるからです。
もちろんこれ以外にもたくさんあります。400年以上前に翻訳されて、その後の研究結果が何も反映されていない聖書に問題がないわけはありません。
そのようなわけで、反KJVの主張には大いに正しい点もあります。
しかしKJVが不完全だからといってTRが劣っているという意味ではありません。
もちろんTRといえどもそれはオリジナルのテキストではなく単なる写本群なのですから、それが正しいわけではありません。
ただ、私としては様々な視点から見て、TRに分があるとみているだけなのです。
以前も書いたように、TRも非TRもその差はほんのわずかです。
TRの良い部分を受け取りつつも普段使いの聖書として非TRだからといって何の問題もありません。
特に新改訳聖書2017は、以前のよりもよくできております。
別系統ながらある部分はTR聖書の翻訳に似てきたようにも感じます。
ですから、私たちはそれぞれ良い部分は認め合う必要があるのです。
ただ、私が心配しているのは、反KJVは表向きは「一つの古い翻訳にこだわるのは良くない」というもっともな主張なのですが、その根底にあるのが反TRであるなら、それは良いものではないと思います。
付録
特に私が好きなのはローマ3:22にあるようなPISTISの訳し方です。
NASからKJVに転向した聖書学者のフランク・ログズドン博士