★TRを底本とした聖書★

新改訳聖書は現状としては現代語訳の中では最良のものですが、それでも完全なものではありません。

いくつかの誤訳や間違いが含まれています。 聖書が元々神の意図とは違ったものになってしまう理由いくつかあり、@翻訳であるがゆえ避けれない誤訳。A文化の違いによる言葉の選択の間違い。などがあります。

しかし、ここで説明することはそれらの理由とは異なる最も根本的な問題について触れたいとおもいます。


新約聖書はギリシャ語から翻訳されたものですが、その原本があるわけではありません。パウロなどの人たちが手紙として書いたものなのを、他の人が書き写して、そしてそれを伝言ゲームのように書き写したものが膨大にあるだけです。

それらの中には間違って書き写されたものや、あまり詳細を気に留めないで書き写したもの、あるいは、意図的に間違った教えを流布する為に改ざんされたものなどさまざまです。

ですから、それらを見分けて仕分ける作業が必要なのです。


その仕分け作業の結果、いくつかのグループに分けることが出来ました。たとえ別のグループであっても、内容にそれほどの差異はありませんが同じグループ内でも違いはあります。それでも、おおむね、もともとはこうであったのであろうと思われる内容の写本群のグループが作られたのです。

そのグループごとに内容を吟味して、元々はおそらくこうだったであろうと思われる1つのギリシャ語の聖書が編纂されました。それは各国語に翻訳される為の原本とされるものなので「底本」(ていほん)と呼ばれます。


さて、それらギリシャ語の底本には現在二つの大きな流れがあります。

ひとつは「ビザンチン型テキスト(TR)」であり、もうひとつは「アレキサンドリア型テキスト(RV)」です。

ビザンチン型テキストの「TR」とはテクストゥス・レセプトゥス(ラテン語: Textus Receptus)の省略でその意味は「受け入れられたテキスト」です。

吟味の結果そのTR版のギリシャ語聖書が作られたのです。そして、それが16世紀の宗教改革の起爆剤となりました。


しかし、その後の時代に、再び吟味が行われて、別の底本が作られました。 それが、「アレキサンドリア型テキスト(RV)」 です。

アレキサンドリア型テキストは「ネストレ=アランド」(UBS)として知られており、それを基にした聖書を「RV」Revised Versionあるいは「RSV」Revised Standard Version 標準改訂訳と呼ばれるものです。

後の研究による新しい聖書なので、こちらの翻訳のほうが正しそうですが、実際にはそうではないようです。

ただ、残念なことに、現在一般的に出回っている日本語聖書はどれもRVを底本としております。

とはいえ、下で詳しく事例を示しているように、正しい教理を持っている人にとってはその違いは大きな問題ではないので、RVを底本とした新改訳聖書、新共同訳聖書を使っていても大丈夫です。


TRを底本とした日本語訳聖書はまったく存在しないわけではなく、文語訳(明治訳)として過去に発行されました。もうひとつはエターナル・ライフ・ミニストリーズが細々と口語体のものを発行しております。また、「現改訳聖書」という名称でマルコーシュ・パブリケーションから近年出版が予定されております。


外国語としてTRを底本としているものは、英語のキングジェームス(KJV)、 ニューキングジェームス(NKJ)、そしてスペイン語のレイナバレラ訳(RVR)です。

ニューキングジェームス(NKJV)は古い英語の言い回しを現代風に置き換えたものなので、読みやすい上に正確な翻訳なのですが、ごく一部変更された箇所もあります。(たとえばローマ3:22など)その箇所が変更されているのはレイナバレラも同様です。)

キングジェームス(KJV)が唯一誤訳と思われる箇所はマタイ16章18節の「ハデス」を「Hell=地獄」と訳していることです。 レイナバレラはハデスと正しく翻訳されています。


ちなみに、旧約聖書に関しては、ほぼ間違いないと思われるヘブライ語の底本があるのでそれほど違いはありません。ただ、新共同訳聖書は旧約に関しても別の底本を使用しております。


とはいえ、普通の人はキングジェームズなどの外国語の聖書を読むことは現実的ではないので、この場で主な異なる箇所をピックアップしております。

 

マタイ1:7-8

マタイ1:25 「初子」新改訳では子

マタイ6:13

マタイ19:17 「善い者」新改訳では良いこと

マルコ1:2-3 「預言者たちの書」新改訳では預言者イザヤの書

マルコ9:44 新改訳では44節が存在せず、脚注に48節と同文が入るとしている

マルコ10:21 わたしにしたがって来なさいの前に「十字架を取り上げて」が無い。

マタイ16:9-20

ルカ2:14  「地上には平和が、 人々の内には、よしとされる思いがあるように」。「みこころにかなう人々」だと全ての人への福音にならない。

ルカ2:33 「ヨセフとその子の母は」。新改訳では「父と母」になっている。

ルカ3:33

ルカ4:4 「神のあらゆる言葉」新改訳では「あらゆる」が欠けている。

ルカ4:44

ルカ9:54 「エリヤがしたように」が(改3、2017)では欄外にある

ルカ9:55 「そして彼は言われた。『あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。』この文章は(改3)には欄外にあるが(改2017)にはまったく無い。

ルカ9:56 「人の子が来たのは、人のいのちをほろぼす為でなく、それを救うためです。」この文章は(改3)には欄外にあるが(改2017)にはまったく無い。

ルカ22:64 「彼の顔をたたき」が削除されている。

ルカ23:38 「ギリシャ語とラテン語とヘブル語で」が存在しないヨハネ19:21にはある

ルカ23:42 「主よ」という呼びかけが存在しない。

ルカ24:42 「彼らは、焼いた魚の一切れと蜜蜂の巣を彼に渡した」

ヨハネ1:18 「生まれたひとり子である御子」が正しい。(※ 説明を読んだが違いがわからない。)

ヨハネ6:11

ヨハネ6:47 「私を」が欠如。キリストを信じることが救いである。

ヨハネ7:53-8:11 この部分は新改訳聖書には残されている。

使徒8:37 37節が欠けている「「(37節)ピリポは言った。 『もしあなたが全き心から信じているなら、よいのです』 彼は答えて言った。 『私はイエス・キリストが神の御子であられると信じています』」(TR 新約聖書)」

使徒9:6 パウロの応答が欠けている「(6節) 彼はおののきながら、また、驚きながら言った。 『主よ、私がどうすることを願っておられるのですか?』 すると主は彼に向かって言われた。 『立ち上がりなさい。…」(TR 新約聖書)

使徒 10:30
(RV)四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、
(TR)四日前、私はこの時間まで断食しており、午後3時には私の家で祈っていました。

使徒19:16

使徒28:13

使徒20:28 (改3、2017)ともOK。間違った訳は「神の血」を御子の血としている。

ローマ8:1 「肉にしたがって歩まず、御霊にしたがって歩んでいる」が存在しない。

ローマ14:10 「…キリストの裁きの御座…」(TR 新約聖書)

コロサイ1:14 「彼の血を通して」が存在しない

第1テモテ3:16 「神は肉において現され」(TR) 新改訳は「キリストは」

ヘブル1:3 「御子は、ご自身を通して私たちの罪の清めを行われ、…」(TR 新約聖書)「ご自身を通して」が存在しない

ヘブル2:11 「みな、一人の方に属しているからです」(TR 新約聖書)新改訳では脚注に異本として記載あり。

第1ペテロ4:1 「キリストが私たちのために肉に関して苦しみをお受けになったのですから(TR 新約聖書) 「私たちのために」が存在しない

第2ペテロ3:10

第1ヨハネ5:7 天において証をするものが三つあります。父と言と聖霊です。

第1ヨハネ5:8  地上において証をするものが三つあります。御霊と水と血です。