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律法主義的ではない教会

律法主義的でありたい人はほとんどいないにもかかわらず・・・

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新約聖書を見るとイエス様の働きに一番反対していたのは律法学者やパリサイ人でした。イエス様がこの地上に来られた理由の一つはまさにこの律法主義的な信仰から人々を解放するためでした。
それにも関わらず、今日においても教会は律法主義的になってしまう現象をよく見かけます。というかそうなってしまっていることに気が付かない場合があります。

神さまが働く余地を与える

そのようになってしまう理由はさまざまでしょうが、その理由の一つはもしかしたらその人の内に神様が働くことに期待していないということかもしれません。 つまり、行動を制限することによってなんとか道を外れないようにするのです。

聖書が言っていること以上のルールを課してしまう危険
教会がメンバーに対して間違ったことをしないように聖書が言っていること以上のルールを守らせようとすることがあります。それは一時的にはその人を守ることができるかもしれませんが、本当の意味でその人を変えることができるかどうかはわかりません。

もちろん、私たちは教えをして、勧めをして、時には指導もします。快楽主義、自由主義の教会ではないからです。正しい方向性を示しますが、だけどどうするかは本人の決断にゆだねます。ちょうどヨシュアが「どれでも選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」と言われたようなものです。

 キリストの律法

私たちが守るべき律法はモーセの律法ではなくキリストの律法です。キリストの律法とは霊の律法とも呼ばれており、単に規則を守ればよいというものではなく、クリスチャンの内側に住まわれる聖霊の促しによって動いていくものです。
それはどの人に対しても画一的なものではなく、それぞれの成長の段階に応じて、失敗を許容しつつキリストの御姿に近づけるように働いてくださるものです。

自由とリスクについて
このようなことを書く牧師はお酒を飲むのはぜんぜんOKだと考えていると思われる人もいるかもしれませんが、そうでもありません。確かに、もちろん聖書には飲酒を戒める御言葉(1コリ 6:10など)はあるものの、健康のためにパウロがテモテに勧めたように禁じてはいないようです。 しかし、だからといってマリファナよりも依存症発症率が高いと言われている飲酒を手放しで見守りたいわけではありません。実際にどう判断するかは個人にゆだねられておりますが、牧師個人としては飲酒をしないし勧めません。

人の性質は楽しいもの依存的なものに傾きがち
聖書が書かれた当時にはなかったものも多いので聖書がそれを禁じているかどうかと問われればそうではないものは多いです。そして人の性質は楽しいもの依存的なものに傾きがちなので、個人で、あるいは「家の家庭ではこうします」などと1歩も2歩も手前で規制していくのも時には大切です。今日、動画サイトやゲーム、SNSなど時間を幾らでも消費してしまう娯楽は多いですが、(私は、たとえば、1日30分という時間は、勉強に費やしたら3年後には1つの言語がある程度あやつれる事を知っているし、それは人生を変える事を知っているので) 時間を無駄にはして欲しくはありません。

実際、そのようにして中学時代には劣等生だったが、高校生では学年トップクラスの成績になった人を知っています

今まで以上に神さまを求める必要がある
ですから、今は以前の時代以上に神さまに近づき、求める事が必要だと思います。そして、自生する中で、今本当にすべきことは何かを知りそれに打ち込んでいくのです。

律法主義に対抗するというのは、放蕩や廃退との戦いでもあるからです。

 


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