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律法主義的ではない教会

律法主義的でありたい人はほとんどいないにもかかわらず・・・

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新約聖書を見るとイエス様の働きに一番反対していたのは律法学者やパリサイ人でした。イエス様がこの地上に来られた理由の一つはまさにこの律法主義的な信仰から人々を解放するためでした。
それにも関わらず、今日においても教会は律法主義的になってしまう現象をよく見かけます。というかそうなってしまっていることに気が付かない場合があります。

神さまが働く余地を与える

どうしてそうなってしまうのでしょうか?そうなってしまう理由はさまざまでしょうが、その理由の一つはもしかしたらその人の内に神様が働くことに期待していないということかもしれません。 つまり、行動を制限することによってなんとか道を外れないようにするのです。

失敗させる

しかし、そうすることは、もしかしたら失敗を通じて神様が何かを学ばせたいと願っている機会を奪うことになるかもしれません。失敗は誰にもあります。たとえ失敗しても神様の元に帰るなら決して拒まれることはありません。そしてその失敗はその人の人生の糧となることでしょう。

そうです、私たちがルールで縛ることをしない一つ目の理由は、神様の働きを邪魔しないようにしたいと願っているからです。 それはある意味境界線を尊重するということです。

聖書が言っていること以上のルールを課してしまう危険
教会がメンバーに対して間違ったことをしないように聖書が言っていること以上のルールを守らせようとすることがあります。それは一時的にはその人を守ることができるかもしれませんが、本当の意味でその人を変えることができるかどうかはわかりません。

 私たちは信じています

私たちは神様がその人の内で働くことを信じています。 教会があれこれ先回りしてお膳立てしなくても、その人の内に働く神様が物事をなしてくださると信じています。ですから、私たちはそういったものを排除したいと考えています。

もちろん、私たちは教えをして、勧めをして、時には指導もします。快楽主義、自由主義の教会ではないからです。正しい方向性を示しますが、だけどどうするかは本人の決断にゆだねます。ちょうどヨシュアが「どれでも選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」と言われたようなものです。 そして、その人がどのような決断をしたとしても、それを尊重し、その人が疎外感を感じないようにいたします。

 キリストの律法

私たちが守るべき律法はモーセの律法ではなくキリストの律法です。キリストの律法とは霊の律法とも呼ばれており、単に規則を守ればよいというものではなく、クリスチャンの内側に住まわれる聖霊の促しによって動いていくものです。
それはどの人に対しても画一的なものではなく、それぞれの成長の段階に応じて、失敗を許容しつつキリストの御姿に近づけるように働いてくださるものです。

 


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