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礼拝出席至上主義ではない

律法主義的ではない」からの続き・・・

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そのようなわけで、私たちの教会は礼拝出席至上主義ではありません。日曜礼拝に出席することが安息日の律法を守ることだとは考えてはおりません。とはいえ、不思議とメンバーの礼拝出席率は高いです。

自由意思に基づいて、そしてともに礼拝したくて、また神にある家族に会いたくてメンバーが集うさまは麗しいものです。

そういえばある人は、日曜礼拝のことを年に一回の親戚の集まりのようだと感想を述べておりました。

コロナ期間中に教会を離れる人はいなかった

2020年から3年以上の間、世界はコロナパンデミックに見舞われました。多くの教会で礼拝出席者数現象が見られる中で、私たちの教会ではまったく減ることはなくむしろ増えました。それは、義務的にいやいや集ってていた人が誰もいなかったことと、また、みんな喜んで自分の意志で集っていたことの表れだと思います。

日曜礼拝出席=安息日を守ることではない

もちろん、6日働いて1日休むという生活のリズムは神様が与えたものであり健康な生活を心がける上でもよいものです。また、(ヘブル 10:25)に書いているように定期的に集うことは大切です。しかし、聖書によると旧約聖書に書かれた安息日というのは究極的には天の御国に入ることのひな形であり(ヘブル人4章)、本体はキリストなのです(コロサイ2:16-17)。
ユダヤ人が今日も安息日を守ることについては彼らの文化なのでそれは問題ありません。しかし、異邦人である私たちが同じようにしなければならないわけではありません。

土曜日ではない

礼拝は土曜日に集まるべきだと考えている教会もありますがそれも違います。聖書は私たちが定期的に集うことを勧めておりますが、どの曜日に集うのかについてははっきり定めてはいないと思います。 土曜日でなければならないわけではない理由については、次に説明する安息日とは何かを知れば理解できることと思います。

安息日とは

多くの人が、というか当の現在のユダヤ人さえ見過ごしておりますが、そもそも旧約聖書に書かれた安息日とは金曜日の夕方から土曜の夕方までの24時間ではありません。
なぜなら聖書の時代には7日ごとに繰り返される曜日と言うコンセプトがなかったからです。

あったのは、月を観察して新月が確認された時からを新月祭とし、7日ごとに繰り返される安息日です。そして、4回目の安息日が終わってから新月祭までの日数は二日前後しかないので7日ごとのサイクルはその月末にリセットされるることになります。

では日曜日なのか

キリストが復活した日だからという理由で、早い時期から初期の教会は日曜日に集っていたという説がありますが真偽はわかりません。初代教会のクリスチャンはユダヤ教の伝統にのっとっていましたが、それが日曜日に集うようになったのはローマ帝国による大人の事情によるもののように思います。

それでも日曜日に集います
それでも、現代の私たちにとって日曜日に集うことは理にかなっています。多くの人たちにとって休日だからです。 また、キリスト教の文化だからです。ですから私たちも日曜日に集います。

義務ではなく喜びによる集い

いずれにしてもその集いは義務によってではなく喜びによってなされます。それはあたかも親戚が年に1,2回集うようなものかもしれません。神にある本当の家族として交わりをよろこび楽しむのです。

受付名簿の無い教会

ここまで読まれたら、想像がつくと思いますが、礼拝に参加する為に受付名簿に名前を書き込むことはありません。ただ、来て参加するだけです。

 


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